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妻が病気で他界。よくある話だ。
妻が車で轢き殺される。お前にこの苦しみが解るか? 失わなくてもいい命を奪われる苦しみと悲しみが。
いつの間にか俺は自分の足が怒りで震えていることに気づいたが、もう止めることは出来ない。どうやら、冷静な自分を再び取り戻す事は不可能なようだ。
そんな俺の状況を無視するように、田崎は話を続ける。
「家内は死んだけど、娘がまだ十歳だからしっかりしないとね。お客さんは、今結婚されてるんですか?」
その問いかけに、俺はどう応えていいか解らず黙り込む。血が出るんじゃないかと思うくらいに、俺の拳は強く握られていた。
「お客さん?」
「すいません、喋りたくないんです。ちょっと……疲れているので」
頭が真っ白になった俺はそれだけ応えて下を向く。これ以上会話をしていたら、田崎を殺す前に俺は狂ってしまう。
十歳の娘が居ると知って、俺が踏みとどまるとでも思ったのか。お前はもう、俺が只の乗客じゃなく、あの時の遺族だと気づいているのか。気づいていなくても、俺の指示した場所に着けば全て思い出すはずだ。
出口町の太鼓坂にある公園は、お前が二人を轢き殺した場所なんだから。
街灯の数も減り、田舎道をタクシーは進んでいく。蛙の低い声が、静まり返った車内に聞こえてくる。その蛙の声によって、幸せだった頃の記憶が少し蘇る。
『ママ、あれは何?』
『あれはねー、蛙さんよ』
『パパ、カエルさんって何?』
『おたまじゃくしさんのパパとママだよ』
『おたまくしさんって何?』
どんな事にも興味を持ち、つぶらな瞳で質問を投げかける美香は本当に可愛かった。
雨蛙を小さな掌に乗せて微笑む美香の笑顔を思い出した瞬間、俺の唇は震え、目からは自然に涙が溢れ出した。
人を殺そうとしているのに、何故泣いているのか。幸いなことに、俺が涙を流していることに田崎は気づいていないようだ。
十五年経っても、二人の笑顔が俺の脳裏に深く刻まれている事は、嬉しくも感じるが、悲しくも感じる。
美咲を思い出しても、触れる事が出来ない。
美香を思い出しても、抱き締める事が出来ない。
心は、毎日悲鳴をあげていた。
愛は、行き場を失ってしまった。
蛙の声が小さくなると同時に、タクシーは太鼓坂を上り始めた。カッターを膝の前で強く握り、俺は小さく深呼吸した。
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