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Act3.恋蛍と少女
6月8日(Fri)
四限目の古文の授業の担当は筆圧の強い女性教師。彼女の授業後は黒板についたチョークの跡がなかなか消えないため、生徒からは嫌われている。
狭い教室に押し込められた四十二人の男女は等間隔に並ぶ机にそれぞれ向かって退屈な授業をやり過ごした。西村光も黒板の板書をノートに書き移す事務的な作業を繰り返しながら思考は教室を離れている。
古文の題材は源氏物語。光源氏が後の妻となる幼い紫の上との出会いを記した第五帖若紫のページを教師は情感交えて読み上げていた。
時折、男は愛している女に別の女の面影を重ねる節がある。
光源氏は初恋の藤壺には亡き実母の幻影を重ね、妻にした紫の上には彼女の叔母の藤壺を重ねて見ていた。源氏物語はいつまでも母親の愛を求めた男の物語だったと光は解釈した。
四限目終了の鐘が鳴り、退屈で苦痛な古文の授業からようやく解放された。女性教師が書いた筆圧の強い白と黄色のチョークの文字は昼休みの間中そこに居座って、賑やかな教室を無口に見つめている。
『あいりー』
「たっくんー!」
違うクラスの男子生徒が女子生徒を迎えに来る。人目を気にせず彼氏の“たっくん”と腕を組むクラスメートの横を素通りして光は教室を出た。
クラスのある南校舎ではなく、渡り廊下を歩いて向かいの北校舎に向かう。
北校舎の非常階段で過ごすひとりきりの昼食はコンビニのサンドイッチとぬるくなったカフェオレ。
北校舎三階の非常階段の踊り場は誰にも見つからない光と蛍の秘密基地だった。
蛍とは2年間クラスが違ったが昼休みにここで落ち合って二人で秘密の時間を共有した。
インスタグラムには載せない二人だけの写真や動画を撮って遊んだり、気に入らない同級生や教師の愚痴を言い合う二人の時間。
雨の日も暑い夏の日も東京に雪が降った冬の日も、非常階段の段差に腰かけて飽きずに話をしていた。
光も蛍も互いだけが友達だった。中学でも高校でも親しい友人を作らず、二人だけの世界に閉じ籠っていた。
永遠に二人だけの世界にいたら、蛍が死ぬこともなかったのに。
予鈴のチャイムがなる前に教室に戻った光に近付いて来たのはクラス委員長の睦美だ。
バレー部の副キャプテンでしっかり者、クラスのリーダーを喜んで買って出そうなタイプの睦美は光の苦手なタイプだった。
「井口先生が西村さんを探してたよ。五限目が始まる前に職員室に来てくれって」
「職員室?」
「五限に遅れても欠席扱いにはしないって言ってた。早く行った方がいいよ」
次の授業に遅れても欠席扱いにしないとは、どういうことだろう。怪訝に感じつつ職員室の扉を開けた光を待っていたのは学年主任の井口教諭と見知らぬ女だった。
『西村。こちら警視庁の刑事さんだ』
「警視庁捜査一課の神田と申します」
光は渡された名刺を見下ろした。この名前には見覚えがある。
昨日川島の職場に現れた女刑事だ。
「刑事さんが私に何の用ですか?」
「川島蛍さんの件でお話を伺いに来ました。教室を用意していただいたから、話はそちらで」
光が連れて行かれた場所は職員室の隣の会議室。長机を挟んで光と美夜がパイプ椅子に腰掛けると美夜は扉の前に仁王立ちする井口に向き直った。
「先生。申し訳ありませんが席を外していただけませんか?」
『しかし……』
「ここからは非常にデリケートな話になります。男性の先生がいると光さんも本当の気持ちを言えなくなってしまう恐れがあります。何かあればお声をかけますので」
美夜に促されて渋々退散する井口が面白かった。三年の学年主任で生徒指導部主任、普段は生徒達に偉そうに指図している井口も美人と国家権力には弱い。
「井口って神田さんみたいな人がタイプなのかな。自分の外見が良いのをわかって利用してる?」
「私は自分の外見はどうでもいいの。でも使えるものは使う主義。ああいう強面な先生が狼狽える様子は面白いよね」
「神田さんいい性格してるね」
川島の職場に現れた刑事は男と女の二人組と聞いていた。捜査では刑事は二人一組で行動するとドラマか小説で得た知識だが、学校に訪れた刑事は神田美夜だけのようだ。
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