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ベンチで寝ていた黒猫と愁の目が合った。闇に浮かぶ二つの瞳は愁を見据えて小さく鳴き、光が消えた方向を哀しげに見つめていた。
『お前もあの女を気に入っていたんだな』
今度は猫の返事は帰って来ない。猫相手に何を話しかけているんだとひとりごちして、彼は草に覆われた公園の小道を抜けた。
団地側ではない道沿いの出口から公園を出て都道を数分歩くとホームセンターの駐車場が見えてきた。閉店間近だと言うのに駐車場に入っていく車が目の前を横切っていく。
駐車場の端に停まるステーションワゴンの後部座席に落ち着いた愁は、運転席にいる日浦一真に光のスマホを差し出した。
『破棄を頼む』
『了解』
初期化されて情報の脱け殻となった光のスマホは明日には粉々に砕け散る。警察は公園に残された川島蛍のスマートフォンを躍起になって調べるだろう。
蛍のスマホを漁ったところで出てくる証拠は、せいぜい光が蛍のスマホを使って殺された男達とトークアプリで連絡を取り合っていた事実だけ。
光側の情報を破棄してしまえば、光と愁の関係は警察に掴まれない。
『このまま恵比寿でよろしいですか?』
『ああ。……あと、調べてもらいたい女がいる。警視庁の刑事だ』
エンジンをかける手前で日浦の顔が後ろに向いた。シートの間から伸びた愁の手にある小さな紙切れを受け取った彼は、そこにある名前を凝視する。
『木崎さんが警察を探るなんて珍しいですね』
『少し気になってな。女の身辺と簡単な経歴でいい。わかり次第、報告してくれ』
次の目的地に到着するまで愁は無言でシートに身を預けていた。目を閉じて先ほどの光の最期を追想する。
──「バイバイ、愁さん」──
あれは昨年の熱帯夜、愁が放った弾丸に男が倒れた。後始末を部下に任せて殺しの現場を立ち去ろうとした時、痩せた少女がこちらを見ていた。
目付きの鋭い野良猫みたいな少女はこう言った。
──「お兄さんがしたこと誰にも言いません」──
殺人を目撃しても少女の愁に対する怯えは微塵も感じられない。銃を突き付けられても、助けて欲しいと泣き叫びもしなかった。
──「お兄さんってヤクザか殺し屋さん? もしもそうなら、お願いがあります。人殺しのやり方を教えて下さい。どうしても殺したい人間がいるの」──
夏の記憶を探るうちにうたた寝をしていた。日浦の声で目覚めた頃には、車窓の景色は東京の外れの団地群から東京の中心地、恵比寿に移り変わっている。
車内に日浦を残して愁は車を降りた。えびす像の前を通って西口から駅内部に入り、エスカレーター横のコインロッカーに向かう。
コインロッカーの開閉には従来の硬貨を投入して鍵で施錠する現金タイプの他に、タッチパネルで操作をする電子ロックタイプがある。
電子ロックタイプのコインロッカーで鍵の役割となるのが暗証番号だ。暗証番号は施錠時に発行のレシートに印字される。
愁のスマホに表示されたレシート画像には取り扱い日時、取り扱い場所のロッカー名、ロッカー番号、取り出しに必要な暗証番号が記載してあった。
ロッカー番号は二十五番だ。
取り扱い日時は2018年6月8日14時36分。今の時間なら受け取りにちょうどいい頃合いだろう。
稀に、ロッカーに指定の物を預けた本人がロッカー周辺を見張っている場合がある。好奇心か知らないが、自分が殺人代行を頼んだエイジェントの正体を突き止めようとする命知らずの馬鹿が一定数いるのだ。
タッチパネルから[取り出し]ボタンを選択し、レシートにある暗証番号を入力。これで鍵が解錠される。
開いた二十五番のコインロッカーには茶封筒が入っていた。封筒の中身は確認するまでもなく代行依頼料の現金十万円。
誰もコインロッカーに現金が預けられていたとは思わない。夜の恵比寿駅を徘徊する老若男女の間をすり抜けて彼は日浦が待つ車に戻った。
車は恵比寿から赤坂へ。赤坂のマンションに帰宅した愁を出迎えたのは夏木伶だった。
いつもなら出迎えに出てくる舞がいない。
『舞は部屋?』
『風呂です。新しい入浴剤を買ったからそれで半身浴するらしくて。さっき入りに行ったので当分は出てきませんよ』
舞の所在を確認後に愁はコインロッカーから引き取った茶封筒を伶の前に放る。伶は封筒から取り出した札束の枚数を数えていた。
『よくもまぁ、どいつもこいつも十万で人殺しを頼むものだ』
『殺したい人間を自分では殺せない人間が多いんですよ。だから“殺してくれてありがとう”なんです。十万で代わりに殺してもらえるなら安いものなんでしょう』
“殺してくれてありがとう”
伶の口からその言葉を聞くのは二度目だ。一度目は春雷の夜。伶はまだ十歳だった。
『自分で殺すと言った女は殺したい人間を最後に殺して自分で死んだ』
『愁さんお気に入りのあの高校生ですか』
『変な言い方するな。道端で拾って面倒見ただけだ』
『愁さんは猫でも拾うように人間拾ってきますよね。俺と舞も愁さんに拾われたようなものですし』
10年前に夏木十蔵の養子に迎えられた伶と舞は夏木コーポレーションが所有するタワーマンションで生活していた。
養子縁組をした関係であっても伶と舞と夏木十蔵は祖父と孫と言う方が相応しい。
夏木は妻と別居中であり他に伶と舞の世話役を務められる者はいない。
伶と舞はタワーマンションの広い部屋で通いの家政婦が作り置きした食事やデリバリーの料理を二人で食べていた。それは伶にとって養子に引き取られる以前と何ら変わりない生活だった。
春雷の遭遇と乖離から2年後の冬に愁と伶は再会する。夏木は愁に伶と舞の保護者代わりを命じ、赤坂のこのマンションで奇妙な三人の同居生活が始まった。
あの時に小学生だった舞は高校生、中学生だった伶も大学生に成長した。
『愁さんが結婚すれば舞も諦めがつくのかな』
『残念ながら期待には応えられねぇな。俺は結婚はしない』
舞が愁と結婚すると言い出したのは同居を始めた直後。当時小学生にして舞は早熟な子どもだった。
『愁さんと結婚したそうな女は腐るほどいるのに、いつも女に望み持たせてバッサリ捨てますよね』
『女は精子の放出先。それで充分だ』
『……愁さん』
リビングを出かけた愁を引き留めた伶はやけに険しい顔つきで愁を見据える。互いに無言で視線を交わした後、伶が重たい口を開けた。
『愁さんが舞を大切にしてくれていることはわかっています。だからこそ中途半端に期待を持たせないでください。きっぱり振られて傷付く方が舞のためです』
『わかってる。いつか俺は舞に嫌われるからな』
『嫌われる? どうして?』
『それが俺の立場なんだよ。……お前は本当にいい兄貴だよな』
ひらひらと伶に片手を振って愁はリビングを立ち去った。ネクタイとシャツを床に放り投げて彼は自室のベッドに寝転んだ。
何もする気になれず、プライベート用のスマホをぼうっと眺める。
トークアプリの友だち一覧に加わった友達ではない存在。次に会う機会があるかわからない女の名前は神田美夜。
キスをしようとすればそんなつもりはないと拒絶し、動揺を酒で誤魔化していた。
まったく変な女だった。
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