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[chapter 1]初夏に陸風ーショカニオフショアー
※scene1※
(やだ……ここから見るとすごい数。こんな大人数の前で歌うんだ)
五月なのに頬と指先が冷たくて痺れる。心臓は完全にオーバーワークで、胸の動悸がこめかみにまで響いてくる。
(こ、これが緊張ってやつ……?)
初夏は一人、舞台下手のカーテンの隙間から観客席を覗き見て、泣きたい気持ちになっていた。
一方、上手側の舞台袖では、A組とB組の生徒がワイワイと本番前の緊張感を楽しんでいる。同じ緊張でも初夏のそれとは全く別物だ。
(ああもう、あの時グーなんか出さなければ……!)
今日は年に一度の合唱祭。
初夏の高校ではこの行事が盛んで、各クラス一丸となって優勝を目指し、真剣に練習を重ねる。
三年生の初夏にとっても最後の合唱祭で楽しみにしていたのだが。
(やっぱり無理……。絶対ソロなんてムリ!)
A組とB組、合同で歌う自由曲と課題曲。あろうことか初夏はジャンケンで負けて、ソロのパートを歌う事になってしまった。しかもソリストの彼女だけは他の生徒が舞台に出揃った後に、下手から登場するという演出。
そんな訳でクラスメートとは反対の袖に待機して、一人緊張と戦っている。
「どう? いっぱいお客さん来てる?」
後ろからのんびりと掛かった声に、一人ではなかった事を思い出した。A組のソロは初夏、そしてB組からも一人ソロを歌う彼がいたのだ。
「陸くん……すごい沢山見に来てるの。どうしよう、無理だよ。あたし上手くもないのにソロなんて」
「え? 初ちゃんすごく上手じゃないか。もっと自信持っていいよ」
彼がおっとりと笑って、初夏の隣で同じようにカーテンの隙間から客席を覗く。その整った隆鼻の横顔に、初夏の胸がトクンと小さく鳴った。
(陸くんって、言う事も顔も声も全部優しい。ソロは嫌だけど、この人と仲良くなれたからグーもそんなに悪くなかった……かな?)
この隣のクラスの本匠 陸の事を初夏はよく知らなかった。今回同じ苦楽を共にした事で意気投合し、親しく話すようになったのだが。
(こんなにカッコいいのに、なんであんまり目立たないんだろ。不思議な人)
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