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第三章 ① 最低よりも。痛い。
何事もなかったかのように過ごしてしまうのは私の悪い癖だと思う。かといって話し合って解決するようなことなのかも私自身にはわからなかった。
家に居たくないから外で時間を使う。それは休日でも同じだった。
明日の午後にも台風が来るらしい。そうとは思えないほど土曜日の空は晴れていた。
家族連れやカップルが多く訪れる紅葉公園。私は誰かを誘うことなく一人でゆっくり歩いていた。今はとてもじゃないけど人と話せるような気分じゃない。
誰かに聞いてもらうだけでも心持ちが軽くなると思う。けれど、初めから何一つとして相談できるような問題の大きさではなかった。
これ以上何か起こればカウンセラーに診てもらわないといけなくなるかもしれない。ただ、本当に診てほしいのは私ではないように思えた。
私は変わらず、心に抱えたもやを顔には出さないように意識して過ごしている。泣いてしまった日を除いては……。
最近、私は2回も泣いた。しかもその2回とも優大に見られている。一度目はお母さんと優大のキスを見て涙をこぼし、二度目はお母さんの不倫を見て大泣きをした。
そういえば2回とも優大にキスをしてもらった。それがあっただけでも幾分かは心の健康に良い影響を与えてくれた。ただ、そのキスの記憶は不幸と言える出来事と結びついてしまっていて、気持ちよく思い出せるものじゃない。
それに、優大も私が涙した原因の一人。今はまだ、休日に会いたいと思う気持ちは薄れてしまっていた。
自然豊かな公園。真っ直ぐ続く通りの脇にはプランターが点々と飾られていて、奥は林になっている。林の中は死角が多く、快晴でも地面に日航が届くところがほとんどない。右も左も気にせず歩ける。視野の狭くなった今の私にちょうどいい場所だった。
悲しい記憶を晴らしてくれるほどではないけれど……。
優大にも泣いていた理由を話せなかった。何度も聞かれたけど、母親の不倫を見たなんて誰が言えるだろう。
結局、1割本音を含めて嘘をついた。お母さんが家に居たせいで、2人きりになれないことが悲しかったと……。そして、出来なかったことが寂しかったと……。
腑に落ちない顔をしていた優大も一応の納得をしてくれた。私も申し訳ないとは思っている。だから私達は唇を長く重ね合わせた。
手を繋いで歩く母娘とすれ違う。小さな幼児はプランターの中の色鮮やかな花々に興味津々だった。母親も子どもの興味に任せてのんびりとした時間を過ごしているようだった。
私は小さい頃の記憶があまりない。記憶喪失ではないし、忘れたい過去があるわけでもない。単に特に印象的な出来事がなかっただけである。
思い出せる出来事のほとんどは人から聞いたもの。あなたはあの時こんな子だったのよとお母さんに言われてそれを自分の記憶にしていた。お父さんが亡くなってから野球に夢中になるまでの間、お母さんと2人で過ごした記憶を思い出せなかった。
小さい頃から、お母さんとの記憶に残る思い出があまりない気がする。このまま大人になるのは寂しい……と一瞬考えてすぐに首を振った。今、一緒に何かしたいなんて考えたら、さらに苦しい思いをしそうだ。
通りを抜けて噴水のある円形の大きな広場に出た。円の形に沿うようにベンチが置かれている。誰も座っていないところを選んで休憩することにした。
ただ歩いていただけなのに凄く疲れた気がする。きっと寝不足のせいだ。どうして寝不足なのか、わかっているからあえて考えないようにした。
「っ!」
いくつかベンチを通り過ぎて目指した場所まであとひとつというところ。手前のベンチに座っていた男性は不幸にも知った顔だった。
「あん? ん? おぉ!」
缶コーヒーを飲んで眠たそうだったその男も立ち止まった私に視線を向ける。首を傾けたその男は、私の素性を思い出すとすぐに馴れ馴れしく表情を浮かべた。
この状況、誰が体験しても同じことを考えるだろう。最悪だと。
そして、一人になるために足を運んだ場所でよりにもよって自分の母親と不倫をしている相手に出くわすなんて、いくらなんでも間が悪すぎるだろうと……。
「おい、そんな怯えるなよ。傷つくだろ。オレは不審者じゃないぞ?」
微笑みながら冗談っぽく言うその雰囲気は一見すると爽やかそうに映るが、腹の内を知る私からすれば、何も知らない不審者に出くわす方が気が楽そうに思えた。それほどまでにこの男が恐ろしかった。名前を口にするのも嫌になるくらい……。
今日はスーツではなく私服でオレンジ色の革靴でもなかった。しかし指輪は当然はめている。左手の薬指にはめた目立つ指輪が日を浴びてほんの少し煌めいた。
この男話したくなんかないし、近くにいるのも嫌だった。けれど足がすくんで動かない。正直、立っているのがやっとだった。
直接何かをされたわけではない。しかし私達の家に不和をもたらしたのは事実だ。今すぐこの場を離れたかった、
「その様子じゃ、やっぱり気づいてるんだな……」
「!!」
男は小さく、低い声で呟いた。目を見開いた私を見て不敵に笑う。
「安心しろ、お前さんの母さんは気づいてない。オレも確信がなかったくらいだしな……」
最低だ。クズだ。
自分が今、何を話しているのか本当にわかっているのか。わかっていながら話しているとすれば相当なクズだ。
2人にしか聞こえない声量だけど、周囲にはたくさんの人が居る。この場所でその話をすることがどれほど危険か、この男は絶対にわかっていない。
「いやー、最近、お前さんの帰りが遅いっていうからいけると思ったんだよな。それがその時偶然お前さんに見つかるなんて思っても――」
「もうやめてください!!」
怒鳴って飄々と湧いてくる言葉を遮る。自分の声は周囲の人も何事かと足を止めるくらいに大きく響いた。親子喧嘩とかと勘違いしてくれたのか周りの止まった足が再び動き始める。
「大きな声も出せるんだな。あの時にそんな声出されてたらオレの心臓止まってたぜ。ははっ」
邪気を持って笑うこの男に殴りかかってしまいそうだった。右手の拳に力ためて、怒りを堪える。そうしていると、私が歩いてきた方から小さな女の子がこちらへ駆けてきた。後ろには母親らしき女性がいる。先ほど花を見ていた母娘達だった。
「パパ見て、キラキラ!」
女の子が抱きついたのは私が対峙していた不倫男だった。パパと呼んだその男へ拾った黒い石を見せている。
石を受け取った男は立ち上がり、ゆっくり歩いてきた女性を一瞥する。私が男の妻らしき女性を見ると、同じ指にはめられた控えめな指輪が一瞬赤い光を見せた。
異様な空気が流れる中、口を開いたのはやはり不倫男だった。
「こちらは、オレのお得意先の娘さんだ。たまたま会ったから挨拶してただけだ」
ごまかすように紹介する。わかっているからこそ、やましいことを隠す言い訳にしか聞こえなかった。しかし、面倒を起こしたくなくてその女性と同時に会釈する。
そして何事もなかったかのように、3人は私に背を向けた。
よその家庭のことをあまり悪く言いたくないけど、その不倫男に関してだけは最低という言葉が相応しくないほど最低に思えた。
最低な男を一言発して地獄に叩き落とそうかとも思ったけれど、小さな女の子の前ではさすがに言えない。
この期に及んで、私は、お母さんを守りたいとも思ってしまった。
背中も見えなくなった尚もその方向を見て立ちすくむ。
足に力が入らず、今になって緊張してきた。悪寒が体中を走る。去ったはずの元凶にまだ睨まれているかのようだった。
「!」
鳴ったスマホの音で不安が紛らわされる。
メッセージではなく電話の音。樹奈から掛かってきた時だけ鳴るメロディだ。まだ部活をしているであろう時間に掛けてきた理由は謎だが、今はとにかく樹奈の声を聞きたかった。
深呼吸をしてスマホをタップする。
「もしもし、樹奈?」
向こうの電話口に気配はしたけど応答がなかった。私の声が小さかったせいかもしれない。間を置いてもう一度声をかけてみる。
「もしも――」
「うち、マネージャー辞めたい……」
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