第三章 ④ もしも気付けていたら。

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第三章 ④ もしも気付けていたら。

 つかれた嘘よりも、言った嘘の方がよく覚えている。  割り切ることで消せる他人の嘘と違い、一度ついてしまった嘘による罪悪感の消し方を私はまだ知らなかった。居心地が悪く、表情がいつもより硬くなってしまう。  後ろめたく、不安になって居心地が悪い。おまけに、大好きなビーフシチューの味を感じなくなってしまっていた。 「中間テストどうだったの?」 「ちょっと下がった。けど、塾とか新しいこと始めたばかりの人はみんなそうなるって先生に言われた」  何気ない質問に、また新しい小さな嘘をつく。居間に響く時計の音が私の心臓の音と重なった。  お母さんから「根を詰めなくて良いからね」と優しく返され、私の心と胃腸が締め付けられる。久しぶりに作り立ての料理を2人で食べているというのに落ち着いて味わうことができなかった。昨日一人で食べたスーパーの半額おにぎりの方が美味しかったと思えるほどに……。  昨日は21時を過ぎる時間に帰宅した。何をするわけでもなく、ただ一人になるためにショッピングモールで時間を潰した。長い時間そこにいたのに、おにぎりを買って食べたことしか覚えていない。  誰とも会わなかったことは私にとっては珍しく、とても幸運なことだった。友達にも、クラスメイトにも、不審な男の人とも会うことがなかった。誰と会ってもまともにコミュニケーションを取れなかったと思う。それに、母親と自分の彼氏が並んでいるの見たというただそれだけのことで不安になる私と話して楽しいと思う人はいないだろう。 「シチュー、美味しくなかった?」 「え? ううん。美味しいよ」  固くなった顔の筋肉を無理矢理に緩ませて笑顔を作り、まだ湯気の立ってご飯をスプーンで多い目にすくった。  食欲が無かったら残しても良いのよ、という言葉には正直に「うん」と返す。  いつもなら自然にできたことが段々と出来なくなってしまっている。  特にお母さんに対しては顕著だ。軽蔑したし、嫌いにもなった。しかし、お母さんの方がいつも通りに声をかけてくるため、どう接すればいいのかわからなくなっている。  問い詰めたり、冷たく当たったりすることが正解なら私の態度は間違いなのだろう。私の中には、まだ無意識にお母さんを庇いたい感情があった。相手が自分にとって一番身近な存在だから対応に苦しむ。自分の母親だから迷いを抱えてしまっていた。  赤の他人になりたいわけではない。けれど当然、積極的にかかわりたいと思っていない。今は、ただただ距離を置きたい気分だった。自分のことなのに自分ではどうすることもできない。高校生であることがどうしようもなく悔しく思えて、今の環境から逃げ出したい想いが沸き上がった。  わかめのスープをゆっくりすすって口の中を整える。今日もお母さんの方が早く食べ終わりそうだった。  考え事をしながら食べる私はいつも以上に遅くなっている。  今の余裕のない私は自分のことだけで手一杯だ。自分の彼氏が自分の母親とキスをしていたと言うだけでも一杯一杯なのに、母親の不倫を見て、その相手男性に目をつけられている。  つくづく間が悪いというか、そもそも運が悪い。  悩むならテストとか受験とか友達付き合いとか、高校生らしいことだけ悩んでいたい。そんな小さな願いも今の私には遠く叶わないものとなっていた。  そして残念なのは勉強の方で悩んでいないわけではないという点だ。担任の渡辺先生に心配されるくらい成績が落ちている。例え先生でも家族や恋人、友達との関係で悩んでいるとは言い辛かった。具体的なことを言わないなら言い訳としか思われない。それならいっそ何も言わずにサボっていると思われた方が良いと思えた。 「そういえばね。この間、優大くんに会ったわよ」 「!」  出された名前に思わず目を見開く。  今日に優大とも話したけれど、向こうはお母さんのことを何も話さなかった。私の方から聞くのはおかしいし、何より聞くのが怖い。だから2人は私が後ろで見ていたことに気づいていない。並んで歩いていただけの2人を見て胸が苦しくなったことを本人たちに気づかれたくはなかった。  それにしても、まさかお母さんが言い出すとは思わなかった。  驚く私へお母さんが続ける。 「廻莉のこと褒めてたわよ。気遣いが上手くて優しくて、自分のことをわかってくれるのはあなただけだって」  面と向かって言われるのも照れるけど、褒めていたと伝え聞くのも照れくさい。娘が褒められたことを話すお母さんは大層嬉しそうな顔をしていた。それを見て背中がこそばゆくなる。熱くなった顔を隠すように俯き気味にビーフシチューをかき込んだ。 「ごちそうさま」  急ぐように残りを食べ切って食器を片付ける。  このまま話していると、私は、お母さんのことを許してしまいそうだった。すべてを無かったことにして元通りの母娘になってしまいそうだった。それが良いことなのか悪いことなのか、おそらくどちらの要素もあるのだろうけど、今はまだ許したいと思わなかった。  今ここで区切りをつけてしまったら、今まで悩んことが無駄に思えてしまう。悩んだ時間が長い分、白か黒かをはっきり決めたい気持ちが大きかった。  食器を流し台まで持って行き、冷やしていたパックの紅茶を冷蔵庫から取り出した。リビングを抜けるドアを開けようかというところでお母さんに呼び止められた。 「そうそう、言い忘れてた」 「?」 「今度の土曜、お母さん、テレビのお仕事で一日いないから、ご飯いらなかったら先に言ってね」  肝心な話がある時ほどなんでもない話から始めるのが樹奈の癖だった。明るい性格の裏に隠れたナイーブな一面が垣間見える。  いつもならいつ本題が始まるのかとやきもきする私だけれど、今晩は落ち着いて聞くことができた。 「今年の冬は黒色と濃い青系の服が流行りそうなんだって。あとガウチョパンツを使ったコーデが増えるらしいよ」 「そうなんだ。ガウチョパンツって何?」 「え?」  電話口から低い声が聞こえてきた。  黙って何も言ってこない辺り本気で呆れているのがよくわかる。 「私もオシャレに興味ないわけじゃないんだよ? あんまり詳しくないだけ。可愛い服とか着たいし」 「廻莉は知らなすぎ。この前も似たようなこと言ってたやん。同じこと何回も聞いてくるし。渡辺先生の方が詳しいよ」 「なんで先生?」 「え? いや、例えばやんか」  さすがに男の人よりも無知と言われるのは女子としてのプライドが傷つく……ということもなかった。競うことじゃないのでどちらでもいい。ここで不安に思うくらいの性格ならとっくにファッション雑誌を買い漁ってる。そうでないということは、私にとってはその程度のことだということだ。  いるかの置き時計を一瞥して勉強机の灯りを消す。そろそろ寝ないと起きられなくなってしまう時間だった。小さな欠伸をして椅子からベッドに座り直す。スマホを耳に押し当て樹奈から出てくる言葉を黙って待った。  まだ少し話辛そうにする樹奈のために、手助けになりそうな話題を振ってみる。 「野球部、今度はどこと試合するん?」 「えっと……、来週に加古川第二と再来週に丹波国際やった気がする」  先日に樹奈はマネージャーをやめかけたけど今は復帰している。しかし作ったしこりは消えていないらしい。そもそもの原因が野球部とはわずかにズレたところにあるため、マネージャー業に愛着を持った樹奈にとってもはっきりとしづらい状況のようだった。  という話は、以前に聞いていた。学校でも話してくれている。こうして電話で話すのは、私に対しても顔を見合わせて言い難いことだからだろう。  痺れを切らしそうになった私の心情を察したのか、観念したかのように小さな声を発してきた。 「うちら……、うちと剣輔、別れることになりそう。うちはまだ、別れたくないのに」  かすれた声色で発せられた相談事は、大体予想通りの内容だった。  やはり私からはどうすることもできない。何かを手伝ってほしいという頼みなら手を貸せるかもしれないけど、問題を聞かされただけでは私も何をどうすれば良いのかわからない。率先して何かをしようものならきっと、間の悪い体質が邪魔をするだろう。私に、悩み相談は向いていなかった。 「この前、暴力を振われたっていうのはちゃんと解決したの?」 「してない」 「会って話すとか、メールでも何か話した?」 「してない……」  なぜしないのかと聞こうとしてやめる。  私が、人に言えることではない。多くの問題を抱えながらそのいずれからも逃げている私が人に説教できることではなかった。 「廻莉って、剣輔とも仲良いでしょ」 「そんなによくはないと思うけど……」 「廻莉から剣輔に話をしてほしい。うちは別れたくないと思ってるって……」 「それくらいなら自分で言いなよ」 「でも、自分で言うよりも人から聞く方が良い時ってあるでしょ?」  時と場合による気がするけど、このまま何を言っても任されそうな気がした。それに、樹奈の頼みなら結局引き受けそうなきがしたから、諦めて仕方なく剣輔くんに話してみることにした。 「わかった……。良いよ」 「ほんとに?」 「うん。けど、すぐに話せるわけじゃないからそこは我慢してよ」 「うん! ありがとう!」  相談事を持ち掛けられ最後に明るい声を聞く。何かを解決したわけではないのにこちらの気も明るくなった。これだけでも甲斐があったかなと思えてくる。 「ねぇ、廻莉」 「ん?」 「うちら、ずっと仲良くしようね」
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