第一章 ① 視界に入る。私も求める。

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第一章 ① 視界に入る。私も求める。

 それを待ち望んでいるのは生徒だけじゃないと思う。  四限目の終わりを報せるチャイムが鳴った。ようやく昼休み。  廊下へ向かう先生も一区切り終えたような、どこかほっとした表情をしていた。  開けきった窓から涼しい風が流れてくる。  まだ暑い日もあるけれど女子の中には冬用セーターを着ている子もいた。  高校生になって初めての夏休みが終わっておよそ半月以上が過ぎた。  休みボケがおさまった頃に風邪を引いたせいで授業の50分が以前よりも長かった。  風邪は治ったはずなのに体調が優れないのは、誰にも絶対に言えない秘密を抱えてしまったせいだと思う。  私は教科書を机の中にしまって長い息を吐いた。張っていた緊張が抜ける。  鞄からお弁当を引っ張り出してハンカチの結びを淡々と解いた。 「いただきます」  誰に聞かれるわけでもない言葉を呟いてお箸を持ち上げる。  お昼はいつも友達と2人で食べるのだけど今日はその子が部活のミーティングらしくていなかった。  優大と一緒に食べることはあまりない。付き合っているとはいえクラスの違う男の子に声をかけに行くのはちょっと照れくさかった。  私の控えめな性格もあって私達が学校で2人きりになることも滅多になかった。ただ今は、今までとは違う理由で2人きりになるのを避けている。 「ごちそうさまでした」  ご飯とおかずがあっという間になくなった。  休み時間が余ってしまった。どうしよう。やることがない。生憎、ここで勉強という選択肢を選ぶほど真面目な高校生じゃなかった。  とりあえず、手を洗ってこようと席を立つ。  教室を出て少し歩いた先、階段と廊下のT字路で男性の先生に声をかけられた。私のクラスの担任であり1年生の理科全般を担当する渡辺先生だ。  30代半ば。黒縁の伊達メガネを着けている。女子からイケオジと評されるくらい色気と人気があるのだと友達が言っていた。  午前の授業では脱いでいた黒いジャケットを羽織っている。 「ちょっと頼み事なんだけど。この資料とノート、準備室に戻してきてくれないか。すぐ使うからテキトーに置いてくれてたら良いわ。鍵も職員室に戻してきてくれ」 「鍵……」  頼み事と言いつつ、ほぼ強制な気がする。 「すまんけど頼むな」  先生はそう言って数冊の資料と鍵を押し付け、口をへの字に曲げる私に構わず足早に去っていった。  公立高校の先生がスーツを着て急ぐなんてよほどの事態なのだろう。気になったけど今は知る由もない。  暇だったからいっかと、渡された物を運ぶことにした。  理科準備室は今いる校舎の3階にある。  クラス教室は2階までにしかなく、特別教室しかない3階は昼の時間だと静かだった。放課後だと文化部が使っているみたいだけどこの時間に理由なく階段を上がる生徒はいないだろう。  静かで人がいないからこそ足を運ぶ者も中にはいるだろうけど……。 「………………」  視界に入った男女2人組の横を通り過ぎる。2人ともこちらに気づいて気まずそうに、くっつけていた体を離した。  サンダルの色からして同じ学年。顔は知らない。  女子の方はバツが悪そうに窓の外に目を向け、男子の方は舌打ちをして私の方を睨んでいる。  私は刺さる視線に背を向けて目的の場所へ進んだ。  預かった鍵を使って部屋に入ると埃とカビの匂いが鼻を突いた。  左右に棚を並べた狭い部屋。資料をどこに直せばいいのかわからない。言われた通り、中央のテーブルの上に置いておくことにした、 「あの人達まだいるのかな。うーん、すごく出づらい……」  大きなため息が出た。  深呼吸したくなったけど空気の悪いここではやめておいた。この部屋に長時間いるとまた体調を崩しそうだ。  仕方なく廊下へ出てなるべく階段を見ないようにして鍵をかけた。  ひとつしかない階段の方へ足を向ける。  やはり、感じていた気配通り、2人はまだ残っていた。さすがに、10㎝くらいの間隔を開けている。  私は来た時と同じように、視線を向けないように気を遣いながら背を向けた。 「空気読めよ……」  微かに聞こえた男の声に、モヤモヤしながらも振り向くことなく階段を下りた。  風邪から復帰して初の放課後を迎えた。やはりいつもより長く感じた。  部活へ行く友達を見送って私も教室を出て靴箱に向かう。  今日は授業にあまり集中できなかった。特に午後からは……。  見たくないこと、関わりたくない人達と関わってしまったせいだった。 「なんでこんなに間が悪いんだろう……」  ひとり言と同時にため息が漏れた。  私は自分の名前にコンプレックスがある。  姓は長尾(ながお)、名は廻莉(まわり)。読める読めないはさておき、まわりという読み方が好きじゃなかった。  空回りとかおまわりさんだとか散々からかわれてきたからというのもあるけど、一番の理由は、もう一つのコンプレックスである間の悪さと結び付けてネガティブになってしまうからだった。  私は物心ついた時から間が悪い。ついこの間にも、しかも誕生日に傷心したばかりだ。  サンダルからローファーに履き替えて玄関に向かう。外に出ると雨の匂いを乗せた、湿った風に撫でられた。  リュックの中を見て折り畳み傘があることを確認する。何かの雑誌に付いていたスウェーデンのファッションブランドの黒い傘。今日もいつも通り持ってきていた。  リュックを背負いなおし、壁に持たれてどんより曇を見上げる。 「ごめん、お待たせ」 「!」  声がして振り向く。  彼は、慌ただしく靴のかかとを正していた。  谷上優大。私とは小学生の時からの幼馴染で今は彼氏。  身長は170で私との差は10㎝くらい。黒髪のツーブロック。長袖ブラウスのボタンを3つくらい開けていて中の黒いシャツが見えている。 「急いでないから大丈夫だよ」 「まぁそうやねんけど、なんか雨降りそうやからな。濡れたらまた風邪引きそうやと思って」  傘があるから雨が降っても大丈夫なんだけど、心配して走って来てくれたのは素直に嬉しかった。  降られる前に帰りたいな。そう呟いた優大と並んで歩く。歩幅の小さい私に気を遣って、優大はゆっくり歩いてくれた。  今も昔も友達の多い優大は付き合う前から、小学生の時からずっと誰に対しても優しかった。私とは喧嘩したことはないし、スポーツをしている時を除いて誰かに本気で怒っているところを見たことがなかった。  この優しさがあるから、私はお母さんとのキスを責められないでいた。  あれからメールのやり取りはしたけれど、結局なにも聞けていない。もちろんお母さんにも聞けなかった。  2人は何事もなかったかのように普段通りで、まるで見てしまった私が悪いかのような気になった。 「そういえばさ、菜々緒さんから聞いたんだけど北小と南小で統廃合するんだってな」 「そ、そうなんだ……」  不意にお母さんの名前が出て驚き、後に続いた話題が頭に入らなかった。  優大と私が幼馴染としての付き合いが長いのと、ちょっとした事情もあって優大はお母さんを下の名前で呼ぶ。  それが私達にとっては当たり前だった。そのせいで、2人の兆候を見落してしまっていたのかもしれない。  今は、振り返るすべての出来事をキスに結びつけてしまいそうだった。  当事者に聞かないと解決できない問題だということは自分でもわかっている。わかっているのに聞き出せない自分に腹が立ちそうだった。 「廻莉、どうかした? まだ体調悪い?」 「え? いや……、私は大丈夫だよ」  足を止めて顔を覗いてくる彼氏に対して、私はぎこちない笑顔を向けて嘘をついた。 「そっか。あんまり無理するなよ」 「うん。ありがと……」  優しくされると素直に返事をしてしまう。  これがあるから私は勇気を出せないし、優大のことを信じてしまう。  付き合った時も現実感がなかったけれど、別れることも想像できなかった。  校門を過ぎて東の駅に向かう。  途中の横断歩道。私達はいつからか、必ず手を繋いで渡るようになっていた。同級生の目が合って触れ合えない時間分、この時間だけは優大のことだけを感じていたいと思った。  手を握る瞬間は優大も無口になる。私はただただ伝わる熱を感じ取る。私はこの、何も考えられなくなる瞬間が好きだった。  このまま何も考えず、気にしないでいたいとも思った。  知りたくないことに気づくよりも、何も知らないまま方がずっと良い。騙されたままの方がきっと私達の関係は長く続く。  それが良いことのなのかはまだ分からない。  雨は、降りそうで降らなかった。
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