第一章 ② この世界に一人。

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第一章 ② この世界に一人。

 先に夕飯を済ませたお母さんは手早く洗い物を始めた。 「廻莉、私この後ちょっと出かけてくるから湯船の栓抜いておいてね」 「今から? もう外真っ暗なのに……」 「雑誌の人は夜型が多いのよ。それに、トレーニーの方達も夜じゃないと揃わないの」  仕事のことを詳しく知らない私は、そうなんだと返してまだ温かいお味噌汁を啜った。  お母さんの仕事は主にスポーツトレーナーと呼ばれている。特に陸上競技界では有名らしくて男性女性問わず指導していたㇼ、一般の人向けにイベントを開いたりしているらしい。最近では美人トレーナーという煽りでたまにテレビに出ている。  娘としては少しこそばゆい……。  今日の夕飯はメンチカツだった。口についた油をテーブルの端に置かれたティッシュで拭う。  私の誕生日から3日経つ。まだ例のキスのことを確かめられていなかった。  2人の前ではキスのキの字も口にしていない。特に、忙しい母とはゆっくり話す時間が合わずタイミングを逸してしまっていた。と言いつつ一番の原因は私自身が本当のことを知るのが怖かったからだった。  言うか言わないか自分でもはっきりしていない。そもそも、自分の彼氏とキスしていたのを見ただなんてどう切り出せばいいのかわからなかった。  聞くのなら今はチャンス。と言うよりも今日を逃せば2度と聞けないかもしれなかった。今だけは怖さよりも聞きたい気持ちがかすかに強い。  聞くと決めると、なんだか体が浮いてしまっているみたいに落ち着かなくなった。それでも勇気を振り絞って口を開く。 「お母さん、誕生日のことなんだけど」 「誕生日? そうね、風邪引いちゃってたから改めてケーキ買わないとね」 「そうじゃなくて。えっと、優大来てたでしょ? それで……」 「優大くん? お見舞い来てくれてたわね。ちゃんとお礼言った?」 「えっと……。うん……」  自分で自分が情けなくなる。  言おうと決めたはずなのに聞きたいことを聞けなかった。結局怖さの方が勝ってしまった。  私達は親子喧嘩をしたことがない。  2人しかいない家族だから互いに傷つけることを嫌って本音を言わない性分だった。  親が子どもを叱るのは当たり前だと思うのだけど、お母さんは私を叱ることはなかった。やりたいことを言うとやらせてくれたし、何かを辞めたいといえば理由を聞かずそっとしてくれる。  おかげで私の反抗期は訪れる前に終わった。  あのキスを、許せるか許せないかで言えばもちろん許せないと思う。  けど日頃のお母さんを見ていて、何か一つのきっかけでお母さんのすべてを嫌いとするのは少し子どもっぽい気がした。今までしてくれたことをなかったことにはできない。  私にとってはお母さんを疑うよりも先に自分の目を疑う方が自然で、その方が楽だった。 「ごちそうさま」  手を合わせて呟いて食器を片付ける。  洗い場まで運び、食器を受け取ろうとするお母さんへ首を横に振った。 「いいよ、残りも私がやっとくから」 「そう? ありがとう。廻莉は良い子ね」  週に一度言われるセリフに私は苦笑いで返した。  背後で着信音が鳴る。お母さんのスマホからだった。  電話に出るお母さんの口ぶりから、今晩の打合せが延期になったことがわかった。  部屋に戻って参考書とノートを広げる。とはいえ今日も集中できる気分じゃない。さっき聞きそびれてモヤモヤを中途半端にしてしまった分勉強に手がつかなかった。  ペンと消しゴムが重たい。読む文字が頭に入ってこなかった。  5分おきに体を伸ばしてベットの隅に放ったスマホを眺める。  ちょうど届いたSNSの通知に屈し、私は勉強を投げ出してベッドに滑り込んだ。風呂上がりに横になるのは髪に悪いと聞いたけど、そんなの知ったことかと枕を下にしてスマホを眺める。  メッセージの相手は中学からの友達、横山樹奈(じゅな)からだった。  渡した誕生日プレゼントを使っているかの催促に、私はまだ使ってないと返信する。  すぐに使ってよとツッコまれた。面倒だから、と返信するより先に樹奈からメッセージが届く。 『廻莉の家、鏡無いもんね』 「あるわ!」  お決まりのボケに光速でツッコミを入れた。  もらったのはお風呂上りに使える美容液。疎い私に気を遣って贈ってくれたのはありがたいけど、正直、使っている自分を想像して恥ずかしくなった。小学生の時から男の子と遊ぶことが多くて、自分でも自覚するほどの無頓着である。  中学の時、ひどい寝癖をつけて登校した以来、樹奈から鏡のことを煽られた。鏡を見る癖がないだけで鏡自体はある。  運動公園のそばにある、二階建ての一軒家がお母さんと私の家だ。  2人で住むには広すぎると思いつつ、亡くなったお父さんとの思い出もあるからずっとここに住んでいた。  3人家族だった私達は、私が5歳になってすぐに母子家庭と言われるようになった。  もちろん寂しい。お母さんの忙しさも相まってさらに増している。当時パパと呼んでいたお父さんに、大人に近づいた自分を見てほしかった。今は天国で見てくれていると信じるしかない。  ふと、お母さんもずっと寂しい思いをしていたんだと気づいた。  樹奈とのやり取りがひと段落し、そういえば話題になってる恋愛ドラマの時間だと思いだしてテレビを点ける。  すぐさまベッドシーンに突入した。  間が悪い体質の私だけど、ドラマのベッドシーンを家族と観て気まずくなったことはなかった。リビングにあるテレビはほとんど使わず、お母さんと一緒にテレビを見たことなんて滅多にない。  お互い、自分の部屋にいるのが好きだった。  趣味という趣味はない。野球を観るのが好きだけど好きなチームとかはなかった。中学の時は部活のことばかり考えていて、進学したら自分の時間が欲しいと思って帰宅部になったのにただ時間を持て余すだけだった。  部活に入っておけば良かったかもと気づいた時にはもう遅い。後から入ってもそれこそ間が悪いと言われるだけと思う。 体質に慣れているといっても、何も感じないわけではなかった。  自分はどうして間が悪いのだろう。きっとこの名前のせいだ。そう思って10歳くらいの時にお母さんに名前の由来を聞いたことがある。  返ってきた答えは「お父さんが決めたからわからない」だった。名前のせいじゃないと安心したかったけれど叶わなかった。それ以来さらに悩むようになったこと覚えている。  お母さんが美人スポーツトレーナーと呼ばれて、仕事が凄く忙しくなった頃だった。  お母さんは現在33歳で、高1の娘がいるとは思えないくらい若い。  それもそのはず。お母さんは16歳の時に産んだ。22歳だったお父さんも若いけど、10代半ばに比べると差を感じる。  私の同級生の母親達と比べればさらに若く見えた。授業参観ではそれはそれは目立っていたことを覚えている。 「16歳で結婚……。私が今16歳で、お母さんはもっと早くに色々考えてたってことなのかな? 結婚を? そんなのまだ考えられない……!」  妄想しそうになって体が震えた。優大の顔がちらついて鳥肌が立つ。  もしかすると世の中には私と同じ年で結婚や出産を控えている人がいるのかもしれないけれど、どうしても自分事には考えられなかった。  中学生や高校生のカップルなんて今時珍しくないけど、本気で結婚を考えているかなんて聞いたら笑われるに決まってる。私と優大もそうだし、樹奈にも彼氏がいるけどどこまでなんて深くは考えていない。  当時の話をお母さんに聞いてみたい気持ちはあるけれど、親子とはいえそこは聞きづらかった。自分が16歳になった今は特に。  気になったけど聞けていないことがいっぱいある。  一方のお母さんはどうだろうか。私に言いたいことを言えているのだろうか。この答えにはNOだと確信を持てた。  部屋の隣にあるお母さんの寝室から時々、すすり泣きが聞こえることがある。たぶん今日も聞こえる。  お母さんが泣くようになったのは10年以上前から。2人で暮らすようになってからだった。  昔は驚いて声をかけていたけれど私はいつからか何も聞かなくなってしまった。何度声をかけても、大丈夫、ありがとう、その二言しか返ってこなかったからだ。  そして私はお母さんのために、聞こえないふり、聞いていないふりをすることにしていた。  ただし今は別の感情もある。  泣いている理由と3日前のキスを結び付けずにはいられなかった。
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