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第一章 ④ 大人の男性。レザー。
何かになりたいと最後に言ったのはいつだろう。
無邪気にお姫様になると言い放ってからその後十数年、人に語れる程何かになりたいと思ったことはない気がする。
野球を始めたのはお母さんの仕事の影響。スポーツ関係の仕事をしていたからというよりも、仕事の忙しいお母さんが家に帰るまでの間の託児所代わり。それでも中学まで続けたのは好きだったからに他ならないけれど。
普段使っていない少人数教室でひとり物思いにふける。まだ日が高いけれど、ほとんどの生徒は帰ったか部活をしているかで校舎内は静かだった。
人を待つことには慣れている。待たされることを得意とは言い辛く、私は背中を丸めて机の上で作った腕枕に顔を埋めた。
心地よい眠気を感じた頃に廊下から大人1人分の足音が聞こえた。
「すまんすまん。急に校長先生に呼び止められて……」
クラス担任が20分遅れでやってきた。急ぐ用事はないけれどろくな連絡なしに待たされて私はすでに疲れていた。これを間が悪いと思うのはさすがに被害妄想だろうか?
長袖ブラウスにグレーのスラックス。黒縁メガネにはレンズが入っていない。身長は優大と同じくらい。歳は私達の倍以上離れている。1年生の女子から人気があると噂の男性教師。
その渡辺先生は、校長先生に呼び出された後なのにシャツを巻くっている。
「すみません。用事はないですけど帰ってもいいですか?」
「いや待って?」
やる気なく脱力した顔で尋ねると、先生はあからさまに目を丸くした。
「まあ待たせたのはごめん。けどもう少し頑張ってやる気出そうよ」
私が座る机と向かい合わせになっている席に座って苦笑いを向けてくる。
渡辺先生は俗に言う熱血教師ではないし、生徒からも年が離れている。けれど生徒との距離感が近すぎず遠すぎず、口下手な私でもフランクに接することができるユニークなタイプの先生だ。
そんな先生とこうして向かい合っているのは単純に進路相談のためだった。
「私、まだ何も決めていないです。ほんとに何もないです」
1年生で実施する進路相談に意味があるのか、やりたいことの無い私にはただただ疑問だった。話すことがないから今日もやる気がなかった。
「うーん。何もないか……」
腕を組み、私の言ったことを反芻して小さく唸る。それに対して私は小さく自信のない声ではいと返事した。
しばらく沈黙が続くのかと思ったけど、意外にも先生は口元を緩ませた。
「何もないってことはないだろう? 何でもないと言いつつ、自分の胸の中ではちゃんと考えているものだ」
「……」
視線を合わせながらも沈黙する私へ先生は続ける。
「オレの経験上、何でもないと言う子に共通するのは、実はあるけど言うのを恥ずかしいと思っているか、決めてから言おうと隠しているか、もしくは自分以外のことが原因で言うのを我慢しているかってところだな」
なんだか色々と見透かされているような気になって嫌だった。
返事を返さなかったけど、目を逸らしたことが答えになってしまっている気がした。
視線を逸らしたまま思っていることを口にする。
「大学には行きたいです。どこに行くかは学祭とか来年のオープンキャンパスを見て決めたいです」
「良いじゃん、それで」
先生は頷きながら持っていたリングファイルの資料に短く何かを書いた。就職か進学か、進学なら専門か短大か四年制大学かのチェックだろう。
その隙に、私自身がどれだけ真面目に考えていないかを言っておくことにした。
「なるべく近いところが良いです。県内が良いです。できれば面接なしで受験したいです。話すの苦手なので。あと、最先端の設備とか要らないので学費の安いところが良いです」
「おぉ、結構出てきたな……。ていうかそれだけ喋れるのに面接嫌なのか」
戸惑われたことには驚かない。言いたいことを言えて私は満足だった。
普段から会話の多くない家庭にいて、私はお母さんにも進路について語ったことがなかった。
最近は必要以上の会話を避けているのが現状。同級生の反抗期と重なっておかげでお母さんには何も言われなかった。
ひょっとすると先生と話している時間の方が長いかもしれない。
「進学するなら選択肢増やすために今のうちから塾とか家庭教師やっといた方が良いかもな。オレが学生だった頃と比べて、今はオンライン授業とかもあるから羨ましい……」
嘆きをスルーし、塾へ通うことを真剣に考える。
そういえば今まで通ったことがなかった。体験入学なんかもしたことがない。
勉強に前向きなわけではないけど家よりは集中できそうな気がした。
その後、十数分くらいやり取りをして進路相談を終える。先日に資料を運ばせたお詫びだと言って食堂前の自動販売機でジュースを買ってくれた。
先生も自分のコーヒーを買って小銭入れをポケットにしまう。スラックスのポケットから車のカギが落ちた。キーホルダーが女性ものの有名ブランドだったことに気づく。そのブランド名を呟くと先生は恥ずかしそうに無言のままポケットにしまった。
彼女からのプレゼントだと悟って話題にするのはやめておいた。
玄関から出てくるスーツを着た知らない男性とすれ違った。
左手の薬指に目立つ指輪をはめていてオレンジに近い茶色の革靴を履いている。お母さんが見送っていたので泥棒でないことだけはわかった。
「ただいま」
「お帰り」
開けてくれていた扉から虫が入らないよう素早く入る。脱いだ靴をリュックを背負ったまま揃える。
台所脇の冷蔵庫から牛乳を取り出して自分のコップに注いだ。お母さんはテーブルに置いた2つのマグカップとコーヒーポットを片付けている。余っているコーヒーを飲むかと聞かれて私は首を横に振った。
ダイニングテーブルにはA4用紙と閉じられたノートパソコンが置かれている。先ほどの男性はやはりお母さんの仕事関係の人だったらしい。
怪しい勧誘の人だったらどうしようかと不安になったけど、その可能性は低そうだった。まあ、家では髪を下ろしているお母さんが髪を整えていた時点でわかっていたことだけど……。
「廻莉、そこのシュークリーム食べて良いわよ」
「え、食べる」
言われて冷蔵庫の中に視線を向ける。白い箱が入っていた。高級ケーキ屋さんのロゴが付いている。近くの本店かデパートかどっちで買ったんだろうとか考えつつゆっくり箱を取り出した。
テーブルに置いて箱を開けると4つも入っていた。
「シュークリームじゃなくてプリンやん。好きだけど」
「プリンって言わなかった?」
「言ってない」
そうだったかしらと数秒前のことも忘れて呟く声を聞き流して、ガラスの容器に入ったプリンとスプーンを1つずつ取り出す。私は2階で食べることにした。
進路相談で進学を口にしたばかり。勉強に少しだけやる気になっていた。
ふと先生に言われたことを思い出す。階段へ向いていた足を止めてお母さんの方へ振り向いた。
「お母さん、私、進学したいから塾に行きたい」
「塾?」
塾に行くにはお金がかかる。私には払えない。お母さんがダメだと言えば諦めるしかなかった。
けれど思っていたよりもあっさりと許しが出る。
「良いわよ。塾で勉強したい打なんて偉いわね。どこの塾かは決めてるの?」
「ううん。まだ探してない」
「そう。じゃあ決まったら教えてちょうだい」
拍子抜け、というかむしろ褒められて驚いた。進学することも始めて言ったはずだけどそこにも触れられなかった。お金のことは心配要らないと、遠回しに言われている気がした。
再び階段の方へ向き直る、すると背中に声をかけられる。
「野球はもうしないの?」
家でその単語を聞くのは久しぶりな気がする。私が高校に入ってから一度も触れていない話題だった。
とっくに辞めたスポーツに一切の未練がない私は、振り向かないままうんと答えた。
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