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第一章 ⑤ 思い出に。したい初めて。
トイレの個室に閉じ込められている。相手に悪意はないのかもしれないけど、愉快な気持ちにはなれない。
2人組の女子がトイレの鏡で化粧か何かで、2つしかない洗面台を占拠している。ついでにひそひそと噂話をされてしまっているので個室にいる方は物凄く出づらい。
ごめんねと言っていいよとあっさり譲ってくれる子なら私はとっくにここを離れられている。そうじゃないからこの狭い空間に閉じこもっていた。
相手はクラスでもイケてる系グループに属する女子2人。ギャルっぽくて不真面目なのになぜか態度が大きい、私が苦手とするタイプ。
そんなわけで気まずい上に居心地が悪い。ため息もつけないという状況がさらに私を息苦しくさせた。
「現国の担任マジ終わってるよね。クソ真面目。全然面白くない」
ギャルグループの中でも一番態度が大きい木村さんの声がする。教師でも一部しか太刀打ちできない問題児。授業中はいつも寝ている。学校に何しに来ているんだろうと思うくらい。
私は、来年はぜひ違うクラスであってほしいと願っていた。
「あいつ絶対彼女いないわ。ほんと気持ち悪いし。無理」
彼女の口からは不満か悪口か、下品な笑い声しか聞いたことがない。そう思うくらい極端な子だった。
「そういえばさー、うちのクラスの長尾っているじゃん」
「!」
不意に自分の名前が出てきて戸惑う。
関わりたくない人物の口から名前を出されて良い気はしないし、嫌な予感しかなかった。
「あの谷上と付き合ってる人でしょ。見た目落ち着いてそうなのに意外と肉食系? って思った」
「駅までいつも手を繋いでるよね。なんか下品。谷上のイメージも下がるわ」
案の定の陰口にため息が漏れそうになったけどなんとか堪えた。
嫌ってくれるのは構わないが自分たちのことを棚に上げているのが腑に落ちない。私も木村さんたちが、それぞれの彼氏と腕を組んで歩いているのを見たことがある。それに比べると私と優大はかなり健全のように思えた。
と、脳内の反論も虚しく陰口は続く。
「長尾って谷上にまだやらせてないらしいよ」
胸の内が締め付けられる。
不安で切なくなる得体の知れない感情が一気に込み上げてきた。
「マジで? それ彼女としてどうなん? ていうか、あんたもなんでそんなこと知ってんの?」
「え? 知らない。だってそんな感じするじゃん」
扉を叩いて出て行こうかと思ったけれど私にそんな度胸はない。
ようやく女達が去る気配がして徐々に遠ざかっていく。湧き上がった苛立ちは、時間が解決してくれることを祈るしかなかった。
噂は噂でしかないが立てられた方はたまったものじゃない。
放課後になってもまだ木村さんらの話を引きずっていた。
彼女達はたぶん、ノリとかネタとか軽い気持ちで話していただけ。おそらく今はもうその話をしていたことすら忘れているだろう。
とはいえ聞いてしまった私はすぐに忘れることはできなそうだった。数日間は憂さを抱えると思う。今はただ、間が悪かっただけだと自分自身に言い聞かせるしかない。
下駄箱前で待つ優大の下へ向かう足が重かった。
木村さんの発言には何の根拠もない。しかし中身が事実であることがさらに私を苛立たせた。
デリケート且つプライバシーな問題を他人にどうこう言われたくないけれど、私は、長い間ずっと気にしていたことを指摘されたようで一層ナイーブになっていた。
冷えた風が強く吹く。流れた髪整えてゆっくりと階段を下りた。
件の問題について、私の中で最も印象深かった出来事を振り返る。
私と優大が付き合って2ヶ月目くらいの時に、彼女になって初めて優大の家に誘われた。今までのように勉強やゲームをするのかと思いきやそうではない。鈍感な私も、大人になる時が来たのだと悟った。
嬉しかった。不安もあったけれど認められたみたいで心が軽くなったことを覚えている。そう思いながらも私は体調不良を言い訳にして断ってしまった。
以来、私達はキス止まりでいる。それが悪いことではないとわかっているけれど、たまに耳にするクラスメイトの話などと比較して自分のステータスに不安を感じてしまうのも事実だった。
一度断った私が、優大からのアプローチを期待するのも虫が良すぎる。優大はきっと我慢してくれているだろう。関係を進めるなら私からアタックするべきだ。そうと理解しつつもそれを言い出せないまま時間だけが過ぎた。
切り出そうとする度に言い訳ばかりが思い浮かんだ。ただ、自分の誕生日だけは本当に腹を括った気持ちでいた。あの日だけは覚悟とそれを維持できる自信があった。
なのに、いやひょっとするとそのせいか風邪を引いてしまった。その上、思いもよらぬものを目撃してしまって今はそれどころではなくなっている。
もし、私が風邪を引かなければあのキスはなかったのだろうか。
4ヶ月前に優大の誘いを受け入れていればこんな悩みを抱える必要はなかったのかもしれない。
全て、自分の間の悪さが影響しているんだとネガティブになった……。
下駄箱で靴を履き替え、待ってくれている優大に声をかける。
「ごめん、お待たせ」
「じゃあ行くか。あ、そこのコンビニ寄って良い? 5限から腹減って死にそう」
「うん、いいよ」
いつも通り並んで歩く。聞いてしまった陰口はこのシチュエーションには影響しなかった。自然に手を繋ぐことができている。
コンビニへ足を運ぶ。着くと、同じ学年の男子数人とすれ違った。私は面識がないけれど優大とは親しいらしく私達を冷やかしてくる。冷やかしと言っても友達同士の他愛のないセリフばかりだった。気を遣って何も言われないよりかはずっと良い。優大も「うるせー、バーカ」と返す顔は笑っていた。
店内のおでんコーナーで立ち止まる優大を横目に私は飲料コーナーに向かう。カップタイプのカフェラテと紙パックのミルクティーを手に取り、結局おでんをやめて焼きそばパンにした優大とレジに並んだ。
お店を出てカフェラテにストローを刺す。パンを頬張る優大から川の方を指さされて、私達は土手に上がることにした。
小高い土手の上は見晴らしが良くてすっきりしている。川は上流から離れていて小さく、近くに山がないので雨が降らなければ流れは緩やか。道幅の狭い、舗装されていない砂道を歩く。
いつも使っている駅に背を向ける形。しかし帰る道としては間違っていなかった。ただただ次の駅に向かっているだけ。歩く距離が少し長くなる代わりに静かで落ち着いた雰囲気を味わえる。この川沿い道はカップル達の間で人気だった。
この道を歩いて告白すると成功率が高いらしい。ほんとかと疑いたくなる。こんなところを2人で歩ける関係の男女ならどこで告白しても上手くいくんじゃないのかとツッコミを入れてしまう私は少しひねくれているのかもしれない。
パンを食べ終えて片手の開いた優大と手を繋ぎ直す。お互い同時にそれぞれの飲み物を飲んだ。
私と優大がここを歩くのはたぶん4回目。夏休みが明けてからは初めて。どちらかが誘うとか決まりはないけど、いつも少し話したいことがある時にこの道を歩いた。
きっと優大から話がある。何の話かはわからない。心当たりがないとは言えないけど、何も勘付いていないように振る舞った。最悪の想定なんてまだまだしたくなかった。
「廻莉、えっとさ……」
「うん」
遠慮がちに口が開かれる。横顔を見ると先ほどの明るい表情は消えていて、真剣かつ神妙な表情になっていた。繋いでいる手から緊張が伝わってくる。私も汗を掻いていて恥ずかしくなったけど、優大が言い辛くならないように手をぎゅっと握り返した。
「オレら、付き合って半年だよな」
「うん、そうだね」
握っている手がさらに熱くなる。声変わりのし終わったはずの喉がややかすれていた。反対に、私の方は冷静になった。
優大の言おうとしていることがわかり、私は心の中で頑張ってと呟いた。
「それはそれとして。そう言えば、最近オレの部屋来てないよな」
「え? あ、うん。そうかも」
「だから……、だからってのもおかしいけど、今度オレの部屋来ない」
不器用な誘いに思わず吹き出しそうになる。懸命に堪えつつカフェラテを飲んだ。
抱えていた悩みが一つスッキリする。肩の荷が下りた気持ちだ。
そして何より、一度断ったことをもう一度誘ってくれたことが嬉しかった。
彼女が彼氏の家へ行く。絶対ではないけれど、特別な意味を持つことがある。私はその特別な意味が含まれているとわかっていながら、不安そうに見つめる優大にはっきりと聞こえる声で良いよと答えた。
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