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序章 誕生日。キス。
半日ほど寝たおかげで、プリンを食べたいと思えるくらいには回復した。
9月17日。私は16歳になった。
なんで誕生日に風邪を引くの……。眠る前に聞いたお母さんのため息が頭の中で再生される。そのため息に私は、引きたくて引いたわけじゃないと今更ながら返事を呟いた。
目を覚まして脳が冴えたせいか眠気が薄い。
横になったまま視線だけ動かして机の上を見る。水族園で買ったイルカの置時計の短針が5時を回っていた。
「お水飲みたい……」
布団をのけて上体を起こす。額に乗せられていたタオルが落ちた。まだ少し湿っている。
右手で額に触れてみると熱は下がっているように感じた。咳も鼻水も治まっている。午前にはなかった食欲も回復していた。
これなら明日は学校へ行けそうだ。
ゆっくりとベッドから足を下ろしてスリッパを履く。ずっと眠っていて固まっていた体をのばした。
自室を出て階下のリビングへ向かう。手すりを掴んで一段ずつ階段を下りた。
リビングにつながる扉の隙間から声が聞こえてきた。
仕事から帰ったお母さんが電話しているのかもしれない。仕事の邪魔をしないように私は静かに足を運んだ。けれどその心配が不要なことに気づく。部屋から別の声が聞こえた。
聞き馴染みのある若い男性の声だ。
名前は谷上(たにがみ)優大(ゆうだい)。私の小学校からの幼馴染で昔からよく家に来ている。誰にでも優しく誰からも好かれ、頼れる男の子。
そしてかれこれ付き合って半年になる私の彼氏でもある。
今日は私のお見舞いに来てくれたのか、それともただプリントを届けに来てくれただけか。いずれにしてもパジャマ姿で会うのは恥ずかしかった。
扉に隠れて着替えるかどうかを悩む。ただその前に、お母さんと自分の彼氏が何を話しているのかが気になった。息をひそめて確かめる。
「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに。あの子まだ寝ちゃってて」
「いいって。オレは廻莉(まわり)の顔が見れたら十分だから」
「そう……。いつもありがとね」
興味本位で聞いていることが恥ずかしくなってきた。
壁にくっつけていた体をはがす。パジャマだからとか寝起きだからとか関係なく、今出ていくのはちょっぴり照れくさい。
会話が止まったら顔を出そうと、行くタイミングを見計らう。
2人は急に声量を抑え、何かを話しているようだけどその声はかすかにしか聞こえなくなった。
訝しみつつ中の様子を覗き見る。
「っ!!」
大きく息を呑む。自分の視覚を信じられなくなった。
幻覚であることを望んだけど、瞬きしても目の前の状況が変わらなかった。
目を離せず、飛び込んできた光景を脳裏に焼き付けてしまう。
背筋は凍り、足は震える。手が冷たくなり、みるみる感覚がなくなってゆく。大きすぎるショックのせいで声を全く出せなかった。
お母さんと優大が唇を重ねていた……。
身を寄せ合い、互いに腕を相手の背中に回している。
夕陽が眩しく、私からは逆光で見えづらい角度だったけれど、キスをしていることだけははっきりとわかった。
動揺し、動転し、気が付くとリビングに背を向けて階段を上がっていた。足音を立てないよう注意して、それでもなるべく早く自室に、ベッドに飛び込んだ。
布団をかぶって体を丸める。
数十秒ぶりに息を吸う。胸の鼓動が早くなり、ようやく涙がこぼれてきた。
冷静になれない。落ち着けるわけがなかった。
眠って忘れたい。見なかったことにしたい。夢であってほしい。嘘であってほしい。もしも現実ならば、今すぐ消えてなくなってしまいたかった。
階段から聞こえた音にはっとする。お母さんの足音じゃなかった。
自室に人が入る気配がした。
「廻莉……?」
「………………」
名前を呼ばれて目を強く瞑る。
起きていることを知られたくない、その一心で体の動きを止めた。呼吸を寝息に近づける。
スリッパを放り出したままだ。涙も拭いてない。吹き出てきた汗は止めようもなかった。
優大が近づいてくる気配を感じ取った。
私が目撃したことに気づいているのかいないのか、優大が今どんな顔をしているのかわからない。今は目を合わせたくなかった。
優大は布団を少しだけ剥がし、私の顔だけを露わにさせる。
自分が何をされるか、優大が何をしようとしているのかわからなくて怖かった。それでも私は、無防備の状態で寝たふりを続けた。
数秒の間があった。
耳に息がかかる。
そして、今まで何度も聞いた優しい声が聞こえてきた。
「廻莉、誕生日おめでとう」
少しして唇に柔らかいものが当たる。
それが何かは目を瞑っていてもわかった。
いつも乾いている優大の唇が今日は少し濡れていた。
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