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黒い鞄
壱
おれがいま陥っているのは、要するにスランプというやつなのであった。
果たしてこれまでに何度、原稿を丸めて屑籠に放り込んだのか、それすらももうわからないでいる。
おれはついに諦めて筆を擱くと、書きかけの原稿から顔を上げた。
視線を、庭に向けてみる。と、正面に植わった肥後椿の葉の緑が、うららかな初春の日を浴び、つやつやと照り輝いているのが目に入る。
その能天気、かつ鮮やかな色が、またことさら、この尖りきった神経に触るのだ。
おれはその庭の光景から顔を背けるようにすると、あらためてもう一度、いま取り掛かっている新作小説の原稿の、その末尾の一文を眺め見た。
そこには、こうあった。
……おれはそれぎり永久に、中有の闇に沈んでしまった。……
……失笑。
嗚呼失笑、失笑。また失笑。
おいおい。その「中有の闇」とやらは、いったいなんのことなのだ?
このように、書いたその当人にしてからが、こんなものはただの戯言の書き連ねであるとしか、思えないのだ。
おれはすっかり伸びきってしまった蓬髪を、両手でがりがりと血も出さんばかりに搔き毟った。大量の白い雲脂が、バラバラと文机の上に落ちてくる。
「……」
とにかく、不愉快なのだ。
無性に腹の立ってきたおれは、やおら手元の万年筆を手に取ると、思い切り振りかぶってそのまま原稿用紙に向かい、真垂直に振り下ろしてやった。その筆先から迸った青インキの飛沫が、原稿の上に派手に飛び散り汚す。
これでスッキリした。そう思って、一人その場で悦に入ってニタニタ笑っていると、背後に人の気配がした。ギョッとして振り返ると、妻の文が書斎の硝子戸の向こうからひょっこりと顔を出し、このおれをジッと眺めている。
いまおれのしたことを文は目ざとく見つけると、
「アッ!」
と声をあげ、急いで床をきしませながら書斎の中にずかずかと立ち入ってきた。
「……チョッ。ちょいとあなたッ。いまいったい、何をしたんですッ?」
文はただただ驚いたような顔で、あたかも富士山の峰かなんぞのように大袈裟に眉根を寄せている。おれは黙って万年筆の蓋を閉めると、そのまま筆置きの上に放り投げた。
「どうなんです?」
「……どうもなにも、べつに何もしちゃいない」
「ああああもう、こんなにしてしまって……これじゃあせっかくのお原稿が台無しじゃあありませんか……アッ! ちょいと見てくださいなッ!」
いちいち癪に触る金切り声でそう言われ、仕方なく手のひらをひっくり返してみると、あちこちさっきのインキの迸りで汚れている。その下の着ている浴衣まで、派手にインキは飛び散っている。
しかしただ、それだけのことだ。
文はおれの傍に両膝を下ろし、ドスンと座り込んだ。大柄な体格だけに、やけに威圧感がある。
何か自分が、一息に幼児帰りでもしたような、そんな気分にさせられてしまった。まるで夜中に布団に粗相をした幼い子供が、翌朝恐い母親に見咎められてでもいるような。
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