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毎日の仕事のあと、おれはたいがい、日課として晩飯までの時間、ぶらぶらと散歩がてら、こうやって駅前まで出てくる。
好物の煙草を切らさないよう、路地端の角のいきつけの、とある煙草屋で補充するため、ということもある。
ときに、その煙草屋の親父に引き止められ、勧めてくる茶を飲みがてら、あれこれと話し込み、つい長居してしまうこともあった。
その、煙草屋の親父とは、おれが田端に越してきてからずっとだから、もうかなりになる。親父は新聞小説を読むのが何より好きでーーそれこそ朝日の漱石先生の連載も、すべてかかさずに読んでいたほどだ。
そしてむろん、このおれの作品も。
それだからまあ、彼とはいろいろと、話が合うのだ。
ついでに言うと、彼はこの田端近辺の情報通でもあってーーそのたいていは、どうでもいいような市井のいざこざ話が主なのだが、ときにはひどく感興をそそられる、そんな話が聞けるときもあった。
一筋の藁にもすがるような思い、というのは、まさにこのときのようなことを、言うのではないだろうか。
「……よし」
おれの足は、だからまずは自然、その煙草屋に向かっていた。
駅前から少し外れた、暗い路地の角にその店はある。ガラスの引き戸を開け、中を覗いてみると、いつものパイプ椅子にちんまりと座って、まるで地蔵のような格好で新聞の夕刊を熟読しているはずの、親父の姿がない。
おかしいなと思っていると、
「や。これは芥川さんじゃないですか。毎度どうも」
などという声が、突然に横ざまから聞こえてきた。
「なんだよ松田屋さん。職場放棄かね?」
「え? ハハ、ああいやナニ……」
親父は被っているベレー帽をいざらせると、その中に手を突っ込んで、禿げ頭をポリポリと掻いた。
「どうも失礼しやした」
親父はおれを伴って店の中に入ると、いつものバットでよろしいですかね? と言って、煙草の詰まった棚に向かい、指を舐めて茶袋を取り出すと、品物の準備を始めた。
「どうです先生? 近頃のお仕事のほうは」
おれは何も答えずに、顎の下を掻いていた。
「ほほ。てこたぁ……調子がすこぶる悪い、ってこってすなあ」
相変わらず、小賢しい親父だ。しかしいつものことである。
「ところで、なんだい。なにかあったのかい」
「なにかって? ええいやナニ、ちょいと今そこで、ずいぶんはた迷惑な痴話喧嘩がおっぱじまったもんでね。あんまり五月蝿えもんだから、軽く注意しに行ってたところだったんで」
まあ、どうです先生、一杯茶でも召し上がっちゃあ、と親父は言い、おいお正、茶だ茶の用意をしろい、と家の奥に向かって叫びだした。お正さん、というのは、親父の妻君のことである。
「それで、無事それは収まったのかね」
痴話喧嘩ならば、ちょうど今しがた、こちらもしてきたばかりだと嘆息しつつ、おれは袂から最後の一本の煙草を取り出して火をつけると、勧められたパイプ椅子に、礼を言って腰を降ろした。
「ナニナニ、収まるも収まらねえも、あっしら外野の言うことなんざてんで耳に入っちゃいませんで。ですからもう、だんだんこっちも馬鹿らしくなってきやしてね、仕方なくほっぽってきたところなんです」
おいお正、茶を早くしろっつってんだ、と親父はもう一度叫んだ。
「どういうことなんだ」
「いやね。ついさっきまで、あっしは普段通り、ここで店番してたんですよ。そしたらば、裏の路地から突然金切声がするじゃねえですかい。しばらくほかっておいたが、これがなかなか収まらねえ。仕方ねえ、ってんで、様子を見に出てみましたらば、なんだか一対の男と女が、そこでひどく揉めてるじゃねえですか」
やがて家の奥から、暖簾をくぐってお正さんが、茶の入った湯呑みを盆に乗せて出てきた。おれは笑顔を作ってそいつを受け取った。
「それで?」
「で、しばらく話を聞いてたんですがね、どうにも腑に落ちねえんで。というのも、いっくら話を聞いてても、一向にその事情が判然としないんでさあ」
親父は痰の絡んだ咳払いを二度ほどしてから、さらに続けた。
「いやま、単純にあれぁ、夫婦なのかなあ……きっとその、諍いなんで。しかしこれがなかなかに、女の方が猛烈なもんだから……」
これはちょいと、うまい「事件」の香りがするぞ、とおれは、その話に少し興味を引かれた。
「……おや? どうしたんです芥川さん」
ふと気づくと、自分も受け取った茶で口を湿らせた親父が、ニヤニヤと笑いながらこちらを見つめていた。
「えっ。ああいや、なんでもない」
すると親父は突然膝をパン! と打って、
「あっしにゃいま、ピンときやしたぜ? どうせ芥川さんのことだ……即座に次のお仕事の材料になるな、なんて、お思いになったんでしょう」
おれは心中舌打ちをしつつ、ただ黙って軽く咳払いをした。それから知らぬふりをして茶を啜る。
「しかし、そうさな、ありゃ確かに、ちょいと面白いかもしれやせんな。なんせどうにも奇妙なんでねえ。小説になるならんは別としても、一見の価値ありだ」
「ときに松田屋さん。その喧嘩はまだ」
「いやいやまだも何も、いままさに真っ最中なんですよ。そうだ、なんなら先生、これからそこまでお連れして差し上げやしょうか?」
素直にうん、と答えるのが少し業腹で、躊躇っているあいだにも親父は自分の湯呑み中の茶を飲み干して立ち上がっていた。見ると暖簾の向こうから、お正さんが何やら心配げに、こちらの様子をジッ、と伺っていた。
親父とともに店を出、路地のさらに奥の方に行ってみると、確かに二、三人の見物に取り巻かれ、一人の女が、道のど真ん中に立ち尽くしている後ろ姿が、目に飛び込んできた。
「……ほら先生。あの女でさ」
親父がおれに、そっと耳打ちする。
後れ毛のひどく乱れた、古びた藍染の浴衣一枚の姿で、向かい合っている一人の小柄な男と、互いの鼻先をひっつけあうかというほどの剣幕で、何ごとかを激しく言い争っていた。
確かに、なにかただならない雰囲気が、その周囲一帯には色濃く漂っている。
「ひどく揉めているようだな」
「そうでがしょ? まあ察するに、あの女はおそらく赤線の女でしょうな。玄人ですよ。あっしにゃその風体ですぐにわかりまさあ」
おれの正面に立ち尽くしている島田に結ったその女は、ひどく大柄で、よく肉がついているようだった。後ろ姿ではあれ、おれたち野次馬の視線をものともしないような、そんな肝も根っから持ち合わせているようだ。
「先生、どうしやした。さっきからなんだか固まっちまって。そうか、文学的な感興が、もうムラムラと湧き起こってきやしたか?」
……どうもこの女の後ろ姿、どこかで見覚えがあるぞ。
と、その女と向かい合っている男がやおら、
「……なあ。どうしてわかってくれないんだ」
とそう大きく声をあげた。
こちらの方は、汚い中折れをかぶった、わりに誠実そうな顔をした、乱杭歯でスーツ姿の、女よりもひどく小柄な若者である。
「なんだかね、あんなことをさっきから、ずっと繰り返しているんで。奇妙でしょう? しかも事情はまったく判然とはしません」
おれと親父を含めた周りの他の野次馬も、しきりに首をかしげたり、ヒソヒソ小声で囁き合ったりしている。
とそのとき、目の前の女が、われわれ野次馬連の方を振り返った。その女の顔を見て、おれはつい、声にならない、そんな声を上げてしまったのだ。
……その女は、ちょっと呆れてしまうほどに、うちの文と、よく雰囲気が似ていた。
いや、似ているどころではない。
まったくの、瓜二つなのだ。
「どうしたんです? 芥川さん」
親父がひどく動揺しているおれを横目で見、不思議そうな顔でそう聞いてきた。
おれたちのいる裏路地の真向かいの方向には、さっきの駐在所が小さく見える。その前には依然、例の駐在が立っているが、どうやらこの揉め事にはまだ気がついていないらしい。
とにかくおれは、この目前の出来事に釘付けになっていた。
どうしてここに、文がいるのだ?
しかも、赤線の女として。
「なあ、松田屋さん」
おれはふたたび男の方に向き直った、その女の着物の帯を見つめながら言った。
「なんでがしょ」
「もし、あの女が赤線の女だというのなら、あの相手の男の方は、いったい何者なんだ?」
聞くと親父は、ニヤリと不敵に笑い、腕組みをしてしばし考えこんだ。
「ほほ。もうお仕事に入ってらっしゃるようですな。そうさな……強いて言うなら陸中あたりの田舎から出てきた、左翼の活動家くずれ、ってところでしょうかな」
「……」
「あるいは、その顛末を小説に仕立てあげようとしている、左翼作家志望者。要するに、二人はおそらく、同郷の夫婦なんでしょう。しかし、何らかのわけがあって、女はいま赤線なんぞの境界に甘んじている、と」
親父は軽く興奮しながら、履いてる股引きの中から煙草を取り出すと、一本咥えて火をつけた。
「しかし芥川さんは、正真正銘の作家先生なんだ。あっしのいま言ったことなんかより、もっと面白い筋立てができるんでしょうに?」
「……なあ、だから、どうして受け取ってくれないんだ」
男がまた、その女に向かって不平そうに叫んだ。
途端に文の身内としてのこちらが、なにかあの男に対して申し訳のないような、同時に妙に馴れ馴れしいような、そんな不愉快で不思議な気持ちが襲ってくる。
と突然、男はそれまでずっと手にしていた黒い手提げ鞄を、その女に向かって押しつけた。女がそれを、即座に払い落とすようにする。
いや、実際、それは二人の足元に払い落とされてしまった。
「あれはいったい、どういうことだ」
「イヤ、ですからああやって、あの荷物をずっと互いに押し付けあっているんでさ。だから余計に奇妙なんですよ」
するとその青年は、その鞄を女の足元にさっと置き直すと、そのまま駅の方角に向かって一目散に駆け出して行ってしまった。
途端に女は、
「……ちょっとッ!」
と金切り声を上げると、堪え難いような顔をして、ふいにおれたちの方を見た。
その女は、何かこちらの胸を鷲掴んでくるほどに悲しげなーーそんな目つきでこのおれをジッ、と見つめていた。
「……ねえ。ちょいとあんた」
女はずいとおれの方にむかって歩を進めると、おもむろにそう言った。
声まで、文に似ている。
「なっ、なんだね」
「あんた、名前なんていうのさ」
「名前?」
おれの声は、知らず上ずっていた。
「芥川だ」
「芥川? 変な名前ね」
「……」
「ねえ、芥川さん。もうなにもかも、ぜんぶあんたに任せるわよ。だからどうとでもして頂戴」
「なに?」
と、女は自分もくるりと反対方向を向くと、そのまま逃げるように、よよと走り去っていってしまった。
「あっ。ちょっ。おっ、おいーー!」
すると驚くべきことに、おれと煙草屋の親父の二人を残し、周囲の野次馬はそれを塩に、するするとまるで糸を解いていくように、三々五々散って行ってしまったのだ。
親父は隣で口を開け、黙ってこのおれを見上げていた。
「こいつは面倒なことになりましたな」
面倒なこと、などと言いながらも、親父はどこか楽しげだ。
「ときに芥川さん。どうするおつもりで」
おれはその打ち捨てられたままの黒い鞄の元まで歩んでいくと、取っ手を持って取り上げてみた。
「……どうしやした?」
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