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一人その場で内心、いろいろと自嘲していても、当然妻は納得しない様子でいた。むしろ変わらず眉をひそめたまま、心配げに、小さく傴僂のように背を丸め、顔をそむけているこのおれを見下ろしている。
「せっかくのお仕事をそんな風に台無しにしてしまうなんて。それが芥川龍之介のやることでしょうか?」
「フン」
さもこちらを詰問でもするかのような口振りで、机の上に飛び散ったままのインクの溜まりを忌まわしそうに指で拭いながら文は言う。
「くだらんことを言うんじゃない」
おれは吐き捨てるようにそう呟くと、そのまま書斎の絨毯の上に身を投げ出し、仰向けにごろりと横になった。両手を枕にすると、じっと天井の木目模様を目で追う。
とたんに文が、呆れた顔をしたのがわかる。
まったく大した学問もなく、世の中のことなど、これっぽっちもわかっていないくせにーーこの女は折にふれ、左のような低俗なことを訳知り顔でのたまう、そんなくせが往々にしてあるのである。
さらにずいと、このおれに向かって膝を進めると、その文は続けた。
「ねえあなた。いったいぜんたい、この頃どうなすったというんです」
おれは黙って、天井の木目を目で追い続けていた。
「なにが」
「なにがって……なんだか最近、いままでとずいぶん様子が違うようですよ」
おれは何も答えなかった。答える気にすらなれない。
自身のいま抱える、作家としての苦悩を赤裸々にその妻に向かって披歴することほどおろかな行いがほかにあるだろうか。
黙って肘で枕を作り直すと、妻に背を向けた。そのときついでに、屁でもひり出してやろうかと腹に力をこめたが、減った腹がかすかに鳴ったばかりで、見事不発に終わる。
「ちょいと、聞いてるじゃあありませんか」
「……おれはもう、やめるかもしれんよ」
ふいに口の端から漏れ出た、そんな言葉を文は聞くと息を飲んだ。
「やめるって、何を?」
「仕事だよ。決まってるだろう」
文に対して背を向けたままでいながら、おれはその言葉に対する妻の反応を慎重に伺っていた。といって直ちに振り返って、その正解を確かめる、そんな勇気もないのだが。
「お仕事をやめて、いったいどうなさると言うんです?」
「そんなものは知らん」
「……チョッ」
文がさらに膝を進め、それがおれの背に突き刺さるようにぶつかると一瞬息がつまる。
「なんだよ痛いな」
「お腹に二人目の子を授かったばかりだと言うのに、それでどうやってこのわたくしどもを養っていくと言うんです?」
おれは黙って、顎のあたりをぽりぽりと指の爪で掻いていた。途端に書斎の中が暗鬱とし、じめじめ湿っぽくなったような、そんな気がしてくる。
「ああもうわかったから。おまえは向こうへ行っていろ」
「ほんとにわかってくだすっているんですか?」
かような夫をそのままそっとしておいて、立ち去ってくれれば良いものを、いまだにおれはその背中に妻の気配をありありと感じていた。
それで一寸違和感を覚えたおれは、振り返ると妻に顔を向けた。
「なんだよ」
「なんだって、さっきからあなたにお客様なんですよ。それをいま、伝えに参ったんですから」
途端に脳髄に電撃の走ったように感じたおれは、寝ていた体をガバリと起こした。
「客だと?」
文は急に、このおれを置き去りにでもするかのように床から立ち上がると、その対応をどうするべきか、冷ややかな目を向け主人の答えを待っている。
おれは心から寒々とするような、そんな怖気を覚えだした。
「おい」
「なんですよ」
「いくら紹介状を持参してこようとも、いまは訪問客はいっさい断れと、そうたしかに言っておいたはずだろう?」
おれの声は、知らず裏返っていた。心臓がちょっと尋常でない、そんな拍動を始めている。
「知っていますよそんなことは」
「だったら客とはなんなんだ?」
もしいま、こんなひどいスランプ状態の時にどこかから新たな執筆依頼でも持ち込まれようものなら、それは惨憺たる結果になるのは目に見えている。
このおれの、いままで築き上げてきた作家としての名声もーーそのすべてが淡雪のように儚くも溶けてなくなってしまうのだ。
……嗚呼。考えるだに惨めだ。
「なんなんだも何も、お待ちなのは久米さんですよ。断ってよろしいんですか? 何か折り入ってあなたに頼みがあるとかで、さっきから玄関先でお待ちなんです」
「頼み?」
おれは頭を必死に働かせようとするのだが、その脳味噌はまるでただいま切り出したばかりの寒天のように、ただぶるぶると頭蓋の中で震えるばかりで、一向に働いてはくれないのだ。
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