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「粗筋でも説明したように、あの鞄の中身が、その男たる亭主の、妻君へのお詫びのしるしなら、彼の思いは、ついに果たされないで終わってしまった、ということになるだろう。それは、やはりこちらとしても忍びない」
「そりゃ、まあな」
「だからなんとか、あの持ち主を探し出せないかと思ってな、努めているんだよ」
「確かに、その顛末まできっちりと書いてこそ、お前のその小説は完結するのかもしれないな」
「あれから何度も、あの鞄を持って駅前に行ってはいるんだが、まったく音沙汰なしなんだ」
と久米が、
「おい、ちょっと待て。よく考えてみろよ」
と呟いて、ポンとおれの肩を叩いた。
「お前のその小説は、いずれわれわれの『文藝春秋』創刊号に掲載されるんだぞ。それを読んで、これは自分です、あるいは私ですと、名乗りを上げてくれるかもしれない、ということはないか?」
そのことに関しては、当然考えはした。
しかしそんなにうまくいくだろうか、という疑念は残る。
芸術至上主義者、と世間で目されているこのおれが、革命を煽るプロレタリア文学の左翼作家ならばいざ知らずーー。
「でもなんだか、その小説の仕上がりが、おれは楽しみになってきたよ」
なぜだかさっきから、久米が妙に含みのあるような、そんな顔でニヤニヤ笑いを続けていた。
それが、気に障ってしかたない。
半丁ほど歩いたところで、駅まで足を伸ばさなくともいい、今日はここで失敬する、と久米が言った。
「お前には、早く戻ってその『黒い鞄』の続きを書いてもらわねばならんしな」
「……」
「なあ、芥川よ」
「なんだ」
「お前のその顔は、今すぐにでも、その鞄の中身を見たくてしょうがない、そんな顔だな?」
「……」
「お前も実は、文さんにいろいろ伝えたいことがあるんじゃないのか」
ドキリとして、おれは久米から顔を背けた。
「なあ。お前に一つだけ、教えといてやろうか。あの日、おれがお前に、この小説の依頼をしに行った日だな。あのとき、玄関先で文さんが開口一番、おれに言ったのは、お前のこの頃の疲弊した心身への、優しい心遣いだったのだぞ」
「……」
「そのことを忘れるなよ。しかし菊池も、この話を聞けば、絶対に興味を持つと思うな。その点は、まずこのおれに任せておきたまえ。では文さんによろしく」
おれはその場で久米と別れ、曲がり角まで来、ふと振り返ってみると、まだそこに久米は立って、こちらに向かって笑いながら、楽しげに二、三度手を振っていた。
漆
その日の夕刻、おれは仕事をする気がまったく起きずに、「黒い鞄」の原稿ははたにうっちゃって、身を入れずにぼんやりと洋書に目を曝したあと、縁側に腰を下ろし、夕闇の中片膝を抱えて煙草をふかしていた。
と、そこに文がやって来た。
「あなた」
言って妻は、おれの傍に妙にかしこまって正座した。
「……なんだ」
少し、違和感を覚えたおれは、ちらと文の顔を見た。
「ちょっとお話があるんです」
おれは、眉をひそめた。当の妻はひどく真剣、かつ深刻な顔をしている。
「何だ、話とは」
文はやがて決心したように、
「比呂志の様子が、おかしいんです」
と言った。
「……比呂志が? どういうことだ」
文は鼻を軽く啜ってから言った。
「昨晩から、水のような下痢が止まらないんです」
「……」
足元の敷石の上に、長くなった煙草の灰を落とした。庭に植えられた南天が、か細い暮れどきの光と翳の中、こちらに向かって何か言いたげに、ひっそりと押し黙っている。
「医者を、呼んでやればいいじゃないか」
急に煙草が苦く感じ出した。喉に絡んだ痰を吐き出すと、黄色く粘ったものが土の上に飛ぶ。
「もう呼びました」
「……流行の、感冒じゃないのか?」
文はため息をつくと、何かひどくもどかしげな、そんな顔をし始めた。
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