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おれは息子の熱い額に手をやりながら、その様を見下ろした。
黒革の鞄をひっつかみ、玄関に向かい下駄の緒に乱暴に足を入れていると、裁縫をしながら文が、居間から軽く顔を覗かせた。
「……あなた。そのお帰りに、ついでに湯にでも行ってらしたらどうですか? 石鹸と手ぬぐいが用意してありますので」
おれは文と、じっと目を合わせた。
それから黙って家を出ると、戸を激しく音を立てて閉めた。
下駄を踏み鳴らしながら、田端の駅まで向かった。夕刻の日の翳りの中、か細い街灯の光の下を、ぽつぽつ人が行き交っている。
角の煙草屋の前まで来ていた。今日は休日のようで、店の中に灯はともっていず、松田屋の親父の姿は見えない。
足元に手にしていた鞄を下ろすと、根元まで吸い尽くした煙草を放り捨てた。
「……仕方ないな」
おれはその場にかがみ込むと、鞄に手をかけた。ファスナーを開け、中に入っていた手紙を取り除くと、覆いの新聞紙をはぐってみる。
「南無三」
見るとそこには、何か黒々とした丸いものが二つ、入っていた。
手を差し入れ、その一つを取り出してみた。
それは小ぶりの西瓜だった。土塊でもついていそうな、いまさっき収穫したばかりのような、野趣あふれるものである。
「……」
そのとき、背後から突然、
「泥棒!」
という、そんな金切り声のようなものが聞こえてきた。
「なに」
驚いて振り返ると、一人の見も知らぬ洋装姿の中年の女が、目を見開いて狂ったように、なぜかこのおれの方に向かって指を差し、駐在所の、あの例の年寄りではない若い屈強そうな駐在にしきりに声をかけていた。
「あの人ッ。泥棒です! あの人!」
「なッ?」
聞きながら繰り返し頷いていたその駐在が、突然こちらに向かって全速力で向かってきた。
「おい! そこのお前待て!」
「……冗談じゃない」
おれはその西瓜の入った鞄を、そのままうちやろうか迷った。
結局、おれはそれを取り上げると、反対の方角に向かって全力で走り出した。
「おい貴様! 止まれと言ってるだろう!」
駐在はしきりにうるさく警笛を吹きながら、猛然とすごいスピードでおれを追い始めた。周囲の人々が、一斉にその様子に目を丸くしていた。
……おれは、これまでの三十年の人生で、おそらく初めてじゃないかと思うくらいに、その後本気で走った。
果たして自分が風になったんじゃないかと、そんな風に感じるくらいに。
走っているうち、なぜだかだんだんと、腹の底から深い、何か哄笑に近いような、そんな笑いがこみ上げてきて、いつまでも止まなかった。
「ははは」
おれは走りながら、大いに笑った。
可笑しくて、仕方がないのだ。
「いったい、何だというんだこれはーー」
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