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久米が、自分に折り入って頼み。
いったい、なんのことだろうか。
しかしいずれにせよ、もしそれが仕事の依頼ならば、いまこのおれに受け入れる余裕など、いっさいないのだ。それは日々の日月星辰の運行と同じほどに間違いないのである。
「ホラちょいと。どうしますよ」
妻が小馬鹿にでもするように、細い目をしてこのおれを見下しながら言った。
「それだったら……ひとまず客間に通すがいい」
「アッ。そうだ。いいことを思いついた」
言って文は、ポン、と両手を叩いた。
「ちょうどいい機会だから、ついでに久米さんに、さっきのあなたのことを叱っていただこうっと」
「何?」
その文は止める間も無く、非常な早足で玄関先に向かって消えていってしまった。おれは激しく舌打ちすると、慌ててその後を追おうと立ち上がりかけた。
と、
「アアいや、一寸菊池からの伝言を、ご主人に伝えに立ち寄ったというような、まあそんな次第なんですがね」
などと、久米の耳馴染みの空元気な大声が、玄関先から書斎のここまで明瞭に響いてきた。
おれは地団駄を踏みながら、机の上の煙草を引っ掴むと震える手で一本抜き取って火をつけた。しばらく耳を澄ませていると、今度は急に何か、妙に気になる沈黙が尾を引き始める。
おそらく、いままさに文が、我が旧友の久米に向かいさっきおれが口走ったあれこれを、ヒソヒソ告げ口しているのに相違ない。
おれは煙草を灰皿に押しつけて揉み消すと、机の上のそのインクの迸った原稿を破りとって丸め、思いきり屑籠に叩き込んだ。
妻を、叱ってやらねばならない。おれはそう考えると書斎を飛び出ていった。
縁側の廊下を音を立てながら大股で客間に入っていくと、予想していた通り、妙にしゃちこばって背筋を伸ばし、あぐらをかいて蒲団の上に座った久米が、さも頼りなげに眉根を寄せ、こちらを心配そうな顔で眺めていた。
「おい。芥川」
おれはその場で大きくため息をついた。着物の袂から煙草の袋を取り出しつつ、一人そそくさと黙って客間から出て行こうとする妻を、横目で睨みつける。
「おいこら、文」
妻はそんなおれのことを一切無視しつつ、
「……ほらあなた。久米さんからこんなおみやを頂きましたよ。虎屋の羊羹です」
などと、その菓子折りを軽くこちらに傾げながらそう言った。
「いま、お茶を入れてきますからね」
そんなわれわれ夫婦を、いぜん心配顔のまま久米はオロオロと見交わしている。奴の手前、いつものように妻を叱り飛ばす檄も口にできん。
あまつさえ彼は、自らも中腰になってわれわれの間に割って入ろうとしているのだ。
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