黒い鞄

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 おれは懸命に理性を働かせた。これ以上、旧友の久米に向かってみっともない内輪喧嘩を開陳(かいちん)することもできん。 「……おい」  喉に絡んだ痰を飲み込みながら言った。 「なんですよ」 「いいか、よく聞け。これからお前が淹れて持ってくる茶は、とびきり濃く、かつ煮えたぎるほどに熱い茶だ。わかったか? さっきから頭がひどくぼんやりしてかなわんのだ」 「はいはい承知しておりますよ。濃くして差し上げますからね。いますぐにでもこの頭のボンヤリした旦那様には、しゃんとしていただかなくっちゃあ」 「……」  文はなにやら真剣な顔で、繰り返しおれにはわからぬような合図を、久米に向かって送っている。久米がまた、眉根を寄せてにわかに困り顔になる。  おれは心底、嫌な心持ちになった。  のしのしと縁側を軋ませ、台所に向かっていった文の後ろ姿を舌打ちして見送りながら、おれは両切りのバットに火をつけ嘆息と共に煙を吐き出した。それから久米に向かって苦笑いすると、どっかりと薄いせんべい蒲団の上に腰を下ろす。 「……やれやれまったく。あいつには困ったものだ。いつものことだが」  取り繕うように、しかしあくまで苦々しげに言ったつもりだった。が、依然、久米はおれの顔を心配げに眺めている。 「おい。もうやめてくれないか。その辛気臭い顔は」 「えっ? ああいや、だってお前……」  煙草の灰を、かたわらの火鉢を手元に引き寄せ軽く落とす。 「どうせ文が、また余計なことをお前に言ったのだろう」 「だって貴様が、折角(せっかく)書き上げた新作小説の原稿を、いまさっき狂ったようにめちゃくちゃにしてしまったんだ、なんて言うもんだから」  なんだか頭の奥の芯の方から、ズキズキと痛んでくるようだった。おれは大きく咳払いすると、 「まだ書き上がっちゃいない。結末の処理が、どうしても気に入らんのでな」 「で……もうこんな辛くて(ひど)い仕事は金輪際やめてしまいたいなどと、男らしくない泣き言を言ったとか」 「……」 「ひょっとしたらうちの人も、ついにあの夏目先生のような、ひどい神経衰弱に罹っちゃったんじゃないかしら、って、真っ青な顔をしていたぞ」   ずいぶんいろいろと、余計なものを盛りつけてくれたものだ。まるでその話は、赤の他人事のようにさえ聞こえてくる。  とはいえ、馬鹿を言え、などと即座に否定する気にもなれないのだから、余計に困るのだった。  そんなおれをさっきから、久米は潤んだような瞳でじっと、その真実を推し量るように見つめている。いったいに一高からの同窓であるこの久米正雄という男は、明治の元勲風に髭を生やし、いかつい面貌(つらがまえ)であるくせして、性格や心情は茶飲み話に花を咲かせるそこらの辻端の女房(ばばあ)どもと変わらない、そんなところがあるのだ。  うちの文のいうことをすぐ鵜呑みにして、結句二人できれいに同盟を結んでしまう、そんなくせがある。  おれは黙って煙草をくわえると、火鉢の中をのぞいてみた。入れたばかりの新鮮な切り炭が、小さく(おこ)っている。  その上に両手をやると、擦り合わせて軽く(あぶ)った。東京の春の訪れは、ようやくうっすらと聞こえてきたところとはいえ、まだまだ肌寒い。 「……別に原稿を丸ごと反故(ほご)にしたわけじゃないんだよ。そんな愚かなことはしないさ」 「ナニ? そうなのか?」  にわかに久米の表情が変わった。 「いやもう、俺はてっきり……」 「だからあの文の言うことを間に受けるなと、いつも言っているだろう。まだこれから少し手直しする必要はあるが、まあほぼ脱稿したと言っていい」
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