黒い鞄

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 しかし、それならば何故、というような疑いの色が、依然久米の顔には確かに宿っていた。 「や、それならまあ、別にいいのだがな。それでこそ当世随一の作家、芥川龍之介というものだよ」  おれは火鉢の切炭の上に、狙いすましたように煙草の灰を幾度か落とした。それから鉢の縁に頬杖をすると、黙って大きな欠伸(あくび)をする。  ……やれやれまったく。どいつもこいつも、すぐにこういったくだらないことを口にするものだ。 「しかし、前作から大して日も()てずに、もう書いてしまったのだな。今度のは、いったいどんな表題なのだね」  心から興味津々、といった、そんな顔をして久米がそう聞く。 「『藪の中』、というんだがね」 「ほう。それは確か『新潮』に渡すのだったな? いや、是非楽しみに拝見させてもらうよ。筆力旺盛、まことに結構結構」  彼は背広のポッケットから自分の煙草を取り出すと、咥えて火をつけ二、三度ふかした。そして正午にほど近い、日の当たる庭に向かって、なにやら嬉しげに目を細めている。その煙草の先端が、チリチリと微細な音を響かせている。 「で、久米よ」 「なんだ」 「その、菊池のおれへの伝言とは、いったいなんなんだ?」  ……ところへ妻が、切って盛り付けた羊羹の皿と煎茶の入った湯呑みを二ッつ、盆に乗せて持ってきた。それらを机の上に並べると、またじっと、盆を抱えながら久米の顔をお願いでもするかのように、まるでお祈りかなにかのように、じっと見つめていく。  久米は幾度か咳払いをしながら、去っていくその文の後ろ姿を目で追っていた。それから煙草の灰を、ポンポンと灰皿に落とす。 「いやナニ、そりゃあもちろん、貴様への新作小説の原稿依頼だよ。決まっているだろう……」 「……」 「今度の菊池の「文藝春秋」創刊号の巻頭にな、ぜひとも芥川龍之介の新作を載せたい、と奴は息巻いているのだ。そこでおれが、その言付けを仰せつかってきた、という次第さ」  そんなそぶりは、おれは久米に対して決して見せずにおいていた。が、畏友菊池寛が、いよいよこの頃自身で雑誌を創刊するという事実をーーおれはこのときまで完全に失念していたということに、強いショックを感じていた。  それほどまでにこのときのおれは、自身のことにかかりっきりだったのだ。  何かひどい嘔吐感のようなものと眩暈(めまい)を覚えながらおれは、ただ煙草をふかすことしか出来なかった。冷や汗のようなものをかきつつ、そのもうもうとした紫煙の中にじっと佇んでいると、久米の顔がまた、だんだんと釈然としない、そんな表情に変わっていく。 「なあおい、いったいどうしたんだ。さっきからそんな浮かない顔をして」  おれは軽く鼻をすすると、吸い終えた煙草を火鉢の灰の中に投げ入れた。 「その『藪の中』という新作は、ほぼ書きあがったのだろう? 脱稿の酔いとでもいった、そんな晴れ晴れとしたものが、今のお前からは微塵も感じられないようじゃないか」  おれは黙って、久米から顔を(そむ)けた。  ……嗚呼(ああ)、いったいどうやって、このおれのいまの心からの窮状を、久米に伝えてやればいいというのだろう。  というのも、いまのこのおれのというのは、何かたった一つの決定的な要因がーー厳然とどこかに存在しているがために始まった、というようなものでは決してないからなのだ。  かつまた、これまでに幾度も経験してきた、仕事における筆の渋りなどという、単純素朴なものでもない。  むしろそれは、非常になのであった。  強いていうならば、 「(ただ)ぼんやりとした不安」  とでも言い現すべき、不可解極まりない代物なのである。  火鉢に頬杖したまま、じっとそんなことをぐるぐる考えているこのおれを見、久米がまた顔全体を疑問符にするような、そんな表情をし始めていた。 「なあ、久米よ」 「なんだ」 「今からおれが聞くことに、正直に答えてくれないか」
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