4人が本棚に入れています
本棚に追加
いっぱいに開け放した硝子戸の向こうから、雀の鳴き声がしきりに聞こえている。おれは鉄箸を手に取ると、手元の火鉢の中の炭をひっくり返した。その割れた隙間から、わずかな熾が、あたかも化身した一匹の小さな蛇の鮮やかな舌のように、ちろちろとかすかな煙と共に立ち昇ってくる。
「おれのこれまでに書き散らしてきたものは、すべて退屈なんじゃあないだろうか」
「退屈? いったいどういうことだね」
久米の持っている煙草の灰が、今にも落ちそうになっている。机の上の灰皿をそっと勧めてやっても、彼はそのことに気がつかないでいる。
「つまりさ。作者たるこのおれ自身が、何をどう書いても、ちっとも気分が霽れないのだよ。今現在、まさにそうなのだ」
いわゆる、スランプというやつだよ、とおれは、衒うことなく言ってやった。スランプ、と久米が、まるで子供のように繰り返す。
「そんな作者の物した作物は、畢竟はつまらない、と言うことに、なりゃしまいか」
くわえ煙草で、ただざくざくと火鉢の中を鉄箸でかき回しながらそのような言辞を弄しているこのおれを、どう扱ったものか久米は困っている様子だった。庭の方に目をやってみると、生垣の向こうを、留袖姿の婦人を乗せた俥が、ゆっくりと通り過ぎていくのが見える。
「なあ、久米。お前はあの日の木曜会で、夏目さんが俺たちに、唐突に『則天去私』ということを言いだしたときのことを、覚えているか」
あぐらをかいた膝の上に両の拳を置いた久米が、大げさに何度もうなずいた。
「むろんさ。自分はいまでも、あの日の漱石先生の我々への神々しいそのお言葉とご様子を、はっきりと覚えているよ」
「でも、今となって考えてみると、そんなもなあ、実は嘘っぱちだったんじゃないのかなあ」
「なに?」
「『天に則り、私を去る』だなんてさ」
「……」
「つまり」
おれの言いたいことが、正しく久米に伝わるのかどうかはわからない。
しかし、ここまで言ってしまった以上は、もう最後までいくしかないのだ。
「あの人も本当は、おれたちみたいな弟子に俄に偉大な聖人扱いされて、実は迷惑だったに決まってるんだよ。そして、いまおれが痛切に感じている、自嘲を込めたこの倦怠にーー終始悩まされ続けていたに決まってるんだ」
「……」
その後は誰もが知っているように、夏目先生のその神経衰弱は歯止めが効かないほど亢進し、おかげで胃の腑に大穴を開け、大量の喀血をし、苦しみに苦しみぬいた挙句、亡くなってしまわれた。
となるといよいよ次は、先生の弟子たるこのおれに、同じその運命が待っているのではないのか?
なにかソワソワとした様子で、久米が廊下の方を振り返っていた。妻にさっきの合図を送り返してやりたいのだろうが、あいつが今、どこで何をしているのかもわからない。
二本の火箸を握りしめたまま、大きなため息をついてから見ると、その久米がいつしかニヤニヤと笑いながら、このおれを見返している。
「なあおい、芥川よ」
「なんだ」
「実は今回のその、菊池の依頼なんだがな……」
最初のコメントを投稿しよう!