黒い鞄

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 久米はそのニヤニヤ笑いを堪えるのに、終始必死な様子だ。 「今のお前の話を聞いていて、もしかしたら今回のこの菊池の依頼は、お前のその倦怠(アンニュイ)とやらを、綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれる、そんな契機になるかもしらん、と思った」  おれは一瞬、眉根をひそめて聞いた。 「どういうことだ?」 「なあ、お前は当然、漱石先生の『三四郎』という作品を、覚えているよな」  笑止千万なことを言うな、とばかりにおれは、久米の思惑を推し量るようにその顔を覗きこんだ。 「『三四郎』は先生の作の中でも大変褒めそやされるものだが、おれにしてみれば『それから』あるいは『道草』の方が数等上だ、という、そんな認識だがね」 「さあ、そこでなんだ。ここからが、菊池の依頼の内容だが、よく聞けよ。どうやら今回、お前にはあの手のを執筆してもらいたい、と、こう言うんだよ」 「……ナニィ?」 「まあよく聞け。というのもな、菊池の言うには、今回の作品に関しては、、ということなのだ。どうだね、そういえばないだろう、芥川龍之介には、あの手の小説が?」  久米は言って、楽しげに煙草をまた一口吸った。  おれは開いた口がふさがらなかった。まるで顎の関節が外れてしまったごとくだ。  しかしまたよりによって、どうして恋愛小説なのだ? 「……ん? や、それはまあ、何より菊池は漱石先生の『三四郎』が大好きだからじゃないかなあ」  途端にさっきの眩暈がぶり返してきて、強い吐き気を催してきた。おれは思わず、口元を手で押さえ込む。 「その菊池の傑作な提案を聞いてな、このおれもぜひ、お前の書く本格恋愛小説とやらを読んでみたいと、心から思った次第なのだ」 「……」 「だいたい、さっきからおまえのグズグズ言っていることは、まあ創作家の普遍的な苦しみとしてわからんでもないが……しかし案ずるより産むが易し、とも言うじゃないか? しかもその発表の舞台は、菊池念願の雑誌の創刊号巻頭だぞ。さあ当然、世人は一斉に我々に注目するだろうな。どうだ、まさにおまえの作品世界における新規軸を打ち出すには、うってつけの場じゃあないか」  ……ああ。これはまずいぞ。 「なにも漱石先生の『三四郎』を、強いて彷彿とさせないだっていいんだよ。これはあくまで一つの例えで、おれたちの欲しいのは、お前なりの解釈による恋愛小説、ということなんだからな」  おれなりの解釈による、恋愛小説。  すると、おい、なんだか喉が渇いたな、などと久米は、空になった自分の湯呑みの中を覗きながら、文をしきりに気にし出した。  このとき確かに、おれは気がつくべきだったのだ。  互いに手をつけないでいた、黒光りする虎屋の羊羹が乾き始めていた。きっと庭先から冷ややかかつ(ぬる)い春先のそよかぜが、終始入り込んできているためだ。  おれはすっかり冷めきった渋茶をひとくち、口に含んで飲み込んだ。
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