4人が本棚に入れています
本棚に追加
久米はそのニヤニヤ笑いを堪えるのに、終始必死な様子だ。
「今のお前の話を聞いていて、もしかしたら今回のこの菊池の依頼は、お前のその倦怠とやらを、綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれる、そんな契機になるかもしらん、と思った」
おれは一瞬、眉根をひそめて聞いた。
「どういうことだ?」
「なあ、お前は当然、漱石先生の『三四郎』という作品を、覚えているよな」
笑止千万なことを言うな、とばかりにおれは、久米の思惑を推し量るようにその顔を覗きこんだ。
「『三四郎』は先生の作の中でも大変褒めそやされるものだが、おれにしてみれば『それから』あるいは『道草』の方が数等上だ、という、そんな認識だがね」
「さあ、そこでなんだ。ここからが、菊池の依頼の内容だが、よく聞けよ。どうやら今回、お前にはあの手の恋愛小説を執筆してもらいたい、と、こう言うんだよ」
「……ナニィ?」
「まあよく聞け。というのもな、菊池の言うには、今回の作品に関しては、必ずこれまでの貴様の作にはなかったような新鮮なものを、ということなのだ。どうだね、そういえばないだろう、芥川龍之介には、あの手の小説が?」
久米は言って、楽しげに煙草をまた一口吸った。
おれは開いた口がふさがらなかった。まるで顎の関節が外れてしまったごとくだ。
しかしまたよりによって、どうして恋愛小説なのだ?
「……ん? や、それはまあ、何より菊池は漱石先生の『三四郎』が大好きだからじゃないかなあ」
途端にさっきの眩暈がぶり返してきて、強い吐き気を催してきた。おれは思わず、口元を手で押さえ込む。
「その菊池の傑作な提案を聞いてな、このおれもぜひ、お前の書く本格恋愛小説とやらを読んでみたいと、心から思った次第なのだ」
「……」
「だいたい、さっきからおまえのグズグズ言っていることは、まあ創作家の普遍的な苦しみとしてわからんでもないが……しかし案ずるより産むが易し、とも言うじゃないか? しかもその発表の舞台は、菊池念願の雑誌の創刊号巻頭だぞ。さあ当然、世人は一斉に我々に注目するだろうな。どうだ、まさにおまえの作品世界における新規軸を打ち出すには、うってつけの場じゃあないか」
……ああ。これはまずいぞ。
「なにも漱石先生の『三四郎』を、強いて彷彿とさせないだっていいんだよ。これはあくまで一つの例えで、おれたちの欲しいのは、お前なりの解釈による恋愛小説、ということなんだからな」
おれなりの解釈による、恋愛小説。
すると、おい、なんだか喉が渇いたな、などと久米は、空になった自分の湯呑みの中を覗きながら、文をしきりに気にし出した。
このとき確かに、おれは気がつくべきだったのだ。
互いに手をつけないでいた、黒光りする虎屋の羊羹が乾き始めていた。きっと庭先から冷ややかかつ温い春先のそよかぜが、終始入り込んできているためだ。
おれはすっかり冷めきった渋茶をひとくち、口に含んで飲み込んだ。
最初のコメントを投稿しよう!