黒い鞄

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「あのなあ、久米」  おれが口を開きかけた矢先、勝手の方から文の大きな(くさめ)をする声が聞こえてきた。それから、長男の比呂志(ひろし)のしきりに母に向かって何か愚図(ぐず)るような、そんな声も。 「ああそうだ、言い忘れていたが、菊池はもうすでに、あちこちでおまえの新作小説が読めるぞと、挨拶がわりに言いふらしているそうだぞ」 「……」 「これから起こす会社への出資者にも当然な。そこまでしておいて、その雑誌巻頭にもし大穴があいたなら、それがどんなことを意味するのか、おまえなら考えないでもわかるだろうな」 「……」 「つまり、社主たる菊池の信用はガタ落ち。結果、作ったばかりの会社は即倒産、ってことだ」 「ちょっ。おっ、おい久米」 「そんな、おれたちの親友に引導を渡すようなことが、貴様に出来るわけはまさかあるまいよなあ」  久米は勝ち誇ったように、またニヤリと笑った。  ……万事休した。そんな感じだった。  そこへ妻が、盆に茶のお代わりを乗せて持って、呑気にふたたび姿を現した。  久米はその文と目を合わせると、黙って笑いかけ、やあ、ちょうど茶の代わりを所望(しょもう)しようとしていたところだ、などと軽く手を上げてみせた。それから人差し指と親指で、しっかりと輪を作る。  妻は、一瞬驚いたように目を丸くさせるとおれたち二人を見交わした。      弐 「それじゃあ、よろしく頼むぞ? 菊池新社主には、お前の依頼、責任持って伝えておくからな。楽しみにしているよ。ああちなみに、締め切りは今日からきっかりひと月だ。ぜひ、守ってくれなければ困るぞ」  久米はおれの肩に手をやると、繰り返しそう念を押した。そして中折れのつばを軽く傾けると、意気揚々と引き上げていった。  玄関先で彼を見送ったあと、おれはよろめきながら書斎に戻ると、蒲団の上に崩おれるように腰を下ろした。 「ああ……」  なにか狐につままれたような、そんな気分がしてならない。  いやいや、妖怪変化どころの騒ぎではないぞ。  ああ畳み掛けられれば、無理なんだと断りきれるわけもなかった。  そして久米の言っていた、菊池が周囲に言いふらしている云々(うんぬん)も、おそらく本当のことだ。  つまり、それは畢竟(ひっきょう)こういうことだ。  おれを半分、自身の立ち上げる会社の広告塔として考えているのだ。  あの男は昔から、平気でそういうことをする人間であった。  そうである以上、もしこの締め切りを落としたなら、奴は烈火のごとく怒り狂うであろう。  一人、書斎の中でそうやって呻吟しているあいだにも、視界の中には例の書きかけで放置したままの、不愉快千万な『薮の中』の原稿がチラチラと入っていた。  おれは文机を両手でバン、と叩いて立ち上がると、札入れと煙草をわしづかみ、着物の(たもと)に放り込んで書斎を出た。  玄関で下駄に足を入れながら、家の奥に向かい、 「……おい。一寸(ちょっと)出かけてくるぞ」  と声をかける。  すると文が手ぬぐいで手を拭いながら姿を現して、 「どちらへ?」  と聞いた。  ……まったく。どちらへ? もなにもないものだ。 「仕事の材料を、これから探してくるんだよ」  引き戸に手をかけながら言うと、文の顔が、にわかにパッと晴れやかなものに変わった。 「そうですか」 「お前にも一応伝えておくが、いいかこれは、あの狡猾極まりない菊池の策略なんだ」 「……策略?」  文が訝しげに首を傾げる。 「そうだ。いいか、奴はおれに、これまでにない耳目をひくような物珍しい小説をあえて無理して書かせることで、自分の雑誌、および会社の広告宣伝に用いようとしているのだ」 「……」 「つまり、おれは騙されたんだよ。だからもう、仕方がないんだ、わかったか」  文は心から呆れたように、小さく嘆息してみせた。 「何もそんな穿(うが)った見方をせずともいいじゃありませんか。ありがたく、菊池さんのご依頼を受ければいいだけのことで」 「なにがありがたいものか」
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