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しかしいずれにせよ、そうやってまた、お仕事への情熱を取り戻してくれたようで私は本望です。そう文が、ホッと安心したように呟いた。
……馬鹿なことを言う女だ。
「だから、いま言っただろう? べつに好き好んで、そうするわけじゃないんだよ」
「……」
「そして、きっとこれが最後だ」
おれは呆れ顔のままの妻をおいて、ガラリと引き戸を開けた。外はそろそろ暮れ時の時間で、家の門の向こうを、練り飴を握りしめた近所の子供たちが歓声をあげながら次々駆け抜けていく。
「ああ、ちょいと。おかえりは、何時くらいになるんです」
「そんなものはわからん。何か使えそうなものにぶっつかるまでだ」
「ぶっつかるったって……そんなに都合よくいくものなんですか」
このおれの癇癪を、ついに文のその言葉が直撃した。
「もしいかないのなら、おれもお前も比呂志も腹の中の子も、みんなおしまいだよ」
おれは引き戸をぴしゃりと閉めた。と文が、ふたたびその戸を開けて、
「ねえあなた」
「なんだよ。まだあるのか」
「でしたらそのついでに、ちいっとだけ駅前で砂糖を買ってきてくださいません? どうやら夕餉の煮付けに足りないようで」
「……」
「おわかりに、なりました?」
「ああああわかったよ。砂糖をちいっとだな?」
おれは吐き捨てるようにそういうと、下駄を鳴らして門扉の外へ出た。
心から苛々しながら、袂から煙草を取り出すと、火をつけけぜわしく蒸した。家の中を振り返ってみると、わずかに翳り出した日の光の当たる縁側に、人影はない。
おれは煙草を目一杯、肺の底の底まで吸い込むと、深いため息と共に時間をかけて吐き出した。
目の前の開いた台所の小窓から、飯を炊く湯気のようなものが上がっているのが見える。どうやら文が、夕餉の支度を始めたものらしい。
「まったく」
おれは足元に吸いさした煙草の吸殻を投げ捨てると、下駄の歯でぶつ切るように踏み消した。
さっきから、鴉の鳴き声がカアカアと、このおれを嘲るように空に響き渡っていた。途端になにか、寄る辺ないような、そんな不安な気持ちになってくる。
それにしても、ただの勢いだけで飛び出してきたが、本当にこんなことがうまくいくのだろうか。
いまのこのおれに、本格恋愛小説なるものが、書けるというのだろうか?
確かに振り返ってみれば、このおれのキャリアには、ほんの些細な姉弟の情愛を書いた掌編などはあれ、男女間の濃密な色恋沙汰を活写したような作品などは、その片鱗すらないと言ってよかった。
この事態は、例えるなら、海辺で漁る一介の漁師を捕まえて、無理矢理江戸に出てこさせ、いきなり人前で落語をさせる、そんなようなものだ。
おれはあらためて、菊池のこのおれを弄ぶかのような思惑に、ちょっとした戦慄すら覚えた。
なにも夏目さんの傑作「三四郎」に拘泥する必要はまったくないのだ、と久米は言った。貴様なりのものに仕上がっていれば、それでよいのだと。
しかし……それこそがまさに問題なのだ。
そもそも、おれなりの恋愛小説とは、いったいどんなものなのか。
台所から、大根か何かを俎板の上で切るような、そんな音が聞こえていた。うっすらとした出汁の煮えるような香りも、こちらまで漂ってくる。
「……まったく、呑気に飯なんぞ食える暇はないかもしれんのに」
着流し一枚では、一寸肌寒さを感じる。しかし羽織りを取りに、もう一度家の中に引き返して文とふたたびあい見える気には、到底なれない。
おれは着物の袂をかき合わせると、新たな煙草に火をつけ、田端駅の方角に向かって懐手をしつつ、足早に歩きだした。
家から駅までの道のりは、たいした距離でもないのだが、さっきまでの鮮やかな夕暮れの空も、その間に少しずつ、宵闇に移ろおうとしている。
おれはようよう、駅前までやってきた。正面にある、大きな柳の木の枝が街灯の光に妖しく照されている。
その下には駐在所があって、いつも大仰な警棒を持った警察官が、いかめしい顔で仁王のように佇立し、こちらを睥睨している。
この日もそうだった。手前の地面からは、目の前を俥が通り過ぎていくたび、もうもうとした土埃が舞い上がる。
いつもの暮れ時の、いつもの田端駅前の風景であった。
「とにかく、なにか材料だ」
おれは両手で口を抑えると、繰り返し咳き込んで絡んだ痰を足元に吐き出した。
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