第六話

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 数日後、ショーンのスケジュールを詳しく確認するため、由莉は久しぶりにかつての所属事務所を訪ねた。 「待ってたわよ。デスクワークはもう飽き飽き」  立ち上がって迎えてくれたカオルに、由莉は差し入れの入った紙袋を差し出した。 「わ、キッチンRのローストビーフサンド!」  カオルは目ざとく人気店のテイクアウトだと気付き、笑顔で礼を述べると、若いスタッフに声をかけた。 「これ切り分けて、今いる人だけで食べちゃって。あたしの分も取っといてよ。奥の部屋にいるから山口さんが戻ったら呼んでね」  ぽんぽんと早口で命じるカオルを見て、由莉は口元をほころばせた。マネージャーとして現場に出ていたころの彼女は、社長の娘とはいえ古参の社員に遠慮がちだった。業界で敏腕とうたわれる人物に憧れ、いつかは自分もと必死で頑張る姿を、由莉はよく覚えている。 「沢彩音?」  カオルはゲッと嫌そうな声を吐いた。 「知ってるわよ。いや、知ってるなんてもんじゃないわ」  何かあったのだと由莉は悟り、名前を出したのを少し後悔した。何か噂でも聞けたらと思っただけなのに、狭い業界どこでどう繋がっているかわからない。 「あの小娘のせいでDプロに馬鹿にされたのよ」  カオルが口にしたのは大手の芸能事務所だ。老舗で人気タレントや歌手を多く抱えている。 「素人で読者モデルしてたころ、うちがスカウトして契約書にサインまでしたのに、Dプロから声かかったとたんに態度変えて、なかったことにしろって向こうのバックがさ……屈辱だったわ」  未だに納得し切れていない様子だ。ただ裏切られただけでなく、よほど悪質な裏切られ方だったのだろう。 「そもそも由莉に似てるって騒がれて人気出た子なのよ」 「へえ、知らなかった」 「はっきり言って出来の悪い劣化版よ。中身もゲスいし、由莉とは比べ物にならないわ。高宮さんのこと、心配なのはわかるけど」 「私は別にそんな……」 「ねえ、あたしにまで隠さないでよ」  じっと見つめられ、由莉は口ごもってしまった。 「相談ならいつでも乗るし、愚痴だって聞くわ。秘密は守るし。一人ぐらい、そういう相手いたっていいでしょ」  カオルは口調をいくらか和らげた。 「あんなのが共演者の中にいるなんて、気が気じゃないでしょ。高宮さんが由莉に似た女とばっかり浮気してきたこと考えると、心配になって当たり前よね」  思わず目頭が熱くなり、由莉は慌てて奥歯を食いしばり涙を堪えた。流してしまったら今は止める自信がない。いつ誰が来るかわからない場所で泣くわけにはいかないと思った。 「だけど、結局どんな女ともすぐ別れるんだから、誰も由莉にはかなわないってことじゃない」 「……違うと思う」  由莉はついに、今まで言えなかった本音を吐き出した。 「あのタイプの若い女が好きなだけ。私だって、たまたま若いころ知り合ったから付き合ってて、それが世間に知られたから結婚したのかもしれない」  カオルは絶句した。 「浮気を隠してるのは、別れたくないからだと思ってた。でも本当に隠すつもりなら、私が見れるスマホにわかりやすい証拠入れて置かないよね。そんな間抜けな人じゃないもの。もう対象外の女だって察して出て行って欲しいのかも……」  由莉はハンカチを目のふちに当て、にじみ出てくる涙がこぼれ落ちないよう吸い取らせた。焚き染めてあるネロリのほのかな香りを嗅ぎ、気持ちを落ち着かせる。 「由莉、こんなこと聞くの気が引けるけど、もしかしてセックスレスなの?」  ストレートな質問に、今度は由莉が絶句した。 「あ、ごめん。言いたくなかったら答えなくていいよ」 「結婚から半年」 「え?」 「そういう意味で夫婦だったのは」  奏の浮気を打ち明けた時より勇気がいった。だが、胸のうちでくすぶり続けてきたドロドロしたものは、いったん吐き出しはじめると止まらなくなる。 「私が彼とつき合いはじめたのは十七歳で、浮気相手はみんな二十歳前後ぐらい……カオルさんも気づいてるよね?」 「だけどさ、若い頃の由莉の面影を求めてる可能性もあるじゃない」 「だとしても、外見いくら磨いたって若返れるわけないし、もうあの人に愛されることなんかないって認めるべきかな」 「由莉、まだ二十代じゃないの。そのへんの新人女優なんかより全然きれいよ? もし芸能界に復帰したら、絶対またすぐ人気出るわ」 「復帰なんかしたら離婚が現実になるね」  由莉は自嘲するようにうっすらと笑った。 「別れる気、少しはあるの?」  カオルの問いにため息だけを返し、気を取り直すように表情を切り替えた。 「ごめんね、こんな話をしに来たんじゃないのに」  由莉は革張りの手帳を開いた。アナログの手帳は、ライターの仕事には欠かせない。 「ショーンのスケジュール確認に来たんだったわね」  カオルも仕事モードに切り替えて、ファイルを由莉に差し出した。 「入ってる仕事とレッスンの予定、それと小説ドラマの詳しい撮影スケジュールも入ってる。この日は駄目ってのは一切ないから、好きなように取材してくれていいわ」 「ありがとう」  由莉は受け取って中身を確認した。 「私の方もこの取材に集中したいから、しばらくほかの仕事は受けないつもり」 「依頼断ったら今後に差し支えない?」 「多少はね。でも、やり甲斐ある仕事の方を優先したいし」 「そう思ってもらえるんなら頼んで良かったわ」  カオルは由莉に断って電子タバコを口にくわえた。 「先月から二階分のフロア使えるようになったのよ。応接室は上の階に移動して、レッスン場とミニスタジオも作ったの」 「教えてくれたらお祝いしたのに」 「自社ビルでも建ったんなら自慢がてら知らせるけど、借り増ししただけだもの」 「私が小さいころは目黒の小さいビルの一室だったよね。こんな都心に移転してワンフロア借り切ってるだけでもすごいのに、倍の面積になったなんて十分お祝いだと思うけど」  この事務所は創業当時からモデル紹介業をしていて、乳児からシニアまで取り揃えたモデル在籍数は業界トップクラスなのだが、他の芸能事務所と違って歌手や芸人とは契約していない。モデルか、そこからタレントなどに転身した者しか扱わない方針なのだ。 「そのうち本当に自社ビル建つんじゃない?」 「ショーンが大物に育てば夢じゃないわ」  カオルは真顔で言った。 「はっきり言うと、うちがここまで来れたのは由莉が頑張ってくれたおかげよ。あのころは新人をスカウトするのも楽だったわ。憧れの由莉の事務所ってだけで、その気になってくれる子多かったから。でも最近は大手が平気でえげつないことするようになっちゃって、いい感じで話が進んでても横取りされたりするんだよね。まあ、沢彩音の件は最悪のパターンだけど」  軽くしゃべっているが、カオルの表情には笑いがない。 「だからね、あたしも今回は色んな手を使ったのよ。チョイ役でも小説ドラマに出れば、モデルのショーンを知らない層にも顔が売れるでしょ? あの子がイケメン俳優としてもてはやされでもしたら、うちにも良い風吹いてくるはずだし、なりふりかまってられないわ」 「それ、ショーンは知ってるの?」 「言ってない。ここだけの話にしてよ? 山口さんにも口止めしてるし」  事務所のごり押しで所属タレントを番組に出演させることなど珍しくもないが、小説ドラマにはそういう圧力は通じないと言われている。一流の役者でもオーディションを受けるかオファーを待つしかない。もし強引な裏交渉で役を取ったと知れたら、嫌がらせや陰口の対象になりかねなくなる。 「話しといた方がいいんじゃ……」 「ダメダメ! 後ろめたさで委縮して演技どころじゃなくなるじゃない」 「そうかな」  カオルがショーンをそんなに弱い人間だと思っていることに、由莉は少し驚いた。 「知らないで、他の誰かに言われる方がショックなんじゃない?」 「だから極秘にしてるんだってば」  声をひそめ、カオルは身を乗り出した。 「引き受けた人物だって、これがバレたら進退問題よ。便宜を図ったとわからないように……それぐらい、わかるでしょ?」 「わかった。聞かなかったことにする」  由莉はうなずいた。そこまでショーンに賭けているのなら、自分が口を出すことではない。 「そういえば由莉、ショーンのお守りしてくれてるんだって?」 「お守りって。話し相手になったりしてるだけよ」 「あの子、ほんと不思議ね。なんで由莉だけ特別なのかしら? あたしにも少しぐらい気を許してくれたっていいと思わない?」  不服そうに口をとがらせた表情が、妙にわざとらしい。 「……カオルさん、謀ったでしょう?」 「何の話?」 「とぼけちゃって」  由莉は苦笑するしかなかった。  これまでモデルしか経験のないショーンに俳優デビューさせるなんて、所属事務所にとっては大きな決断だ。それなりに投資してサポートするからには、失敗しましたでは済まないだろう。  当然ながら、彼がナーバスになることも予測しているはずで、そんな時に密着取材を入れるというのは、よく考えるとおかしな話だ。  もしかすると由莉に求められているのは、取材記事を書いて世間の反響を得ることよりも、ショーンの精神的なサポートなのではないか。彼が心を開けるのは由莉だけだということを、カオルなら昔からよく知っている。 「策士ね、カオルさん」  密着取材なんて企画を持ちかけられたのも、もしかすると偶然ではないかも知れない。 「さあ? 何のことだかわからないわ」  そう言いながら悪びれずに舌を出すカオルを、由莉は憎めないなと思った。 「でも、自分にしかなつかない大型犬みたいで可愛いでしょう? 癒されない?」 「癒されな……くはないか」  ショーンが昔と変わりなく向けてくる屈託ない笑顔には、確かに気持ちを(なご)まされている。 「ボルゾイっぽくない?」  ロシア貴族が飼っていたと言われる大型犬の名前を出され、由莉はふき出した。あまりにもイメージ通りだからである。 「でも、油断したら噛まれちゃうかもね。あの子、ああ見えて計算高いところあるし」  この期に及んで何を言っているのかと、由莉は呆れてまじまじとカオルの顔を見た。 「高宮さんみたいに」  真顔で見返してくるカオルに、由莉は何を言えばいいかわからず、黙って目をそらした。
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