第八話

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「こないだスタジオに奥さん来てたでしょ?」  甘口のワインを口に含みながら、沢彩音は意味ありげに上目遣いで奏を見た。  高層ホテルの一室。  安くない宿泊料金にはセキュリティの厳重さも含まれていて、ゴシップに飢えた人々の目も防いでくれる。 「旦那さんほっといて若い子につきっきりって、危機感なさすぎ」  可笑しそうに、どこか小馬鹿にした口調で言うと、彼女は白い喉を鳴らしてワインの残りを飲み干した。 「だから、俺たちがこうしていられるんだろ」  奏はミネラルウォーターのボトルを手に、ベッドに戻って寝そべった。 「まぁ、そうだけど」  ベッドに腰かけた彩音はバスローブ姿で脚を組み、だらしなく太ももまでめくれた裾を直そうともしない。清楚なイメージの外見とは裏腹に、彼女は酒と煙草をたしなみながら娼婦のように奔放に男を誘う女だ。 「私が奏さんの奥さんなら、裏切らないようがっちがちに管理すると思う」 「怖いね」  ボトルに口をつけて水を飲むと、奏は彩音の方に手を伸ばした。 「だって、知らない女に寝取られたくないじゃん。奏さんみたいなモテ男、野放しにしてたらやばいって」 「野放しって」  笑いながら腰に手をまわし、その華奢なくびれを楽しむように撫でる。 「ねぇ、奏さん」  彩音は空のグラスを床に放ってふり向き、バスローブの紐をゆるめながら男の目をじっと見つめた。 「もし奥さんと別れる気になったら、私と結婚しない?」  笑いを含みながらも、彼女の目の中で嫉妬の炎が燃えていた。 「じゃ、由莉と別れる気にさせてみれば?」  わざと妻の名を出した奏に、彩音は表情を変える。 「言ったね?」 「ああ、言った」 「取り消しは許さないから。本気で好きなの」  熱い吐息とともに愛の言葉をささやき、彩音は上からのしかかるように奏に口づけた。  奏の手は自動的に、いつものようにうごめきはじめる。気持ちなどなくても、別の生き物のように勝手に()い回り、女を抱く準備を進めていく。嫌気がさすほど手馴れた行為だ。なめらかな白い肌、黒く長い髪。華奢な肢体。女に求めるのはそれだけ。甘い言葉などいらない。 ――由莉。由莉。  幾度その名を心の中で叫び、彼女のことを思いながら別の女を責めたて、きつく抱きしめたことだろう。  どうせ相手も人気俳優と寝たいだけなのだ。生身の高宮奏など、誰も求めていない。ただ一人、本名の(かなで)としか呼ばない妻を除いては……だが、彼女の望みにだけは応じられない。  まだ何者でもなかった頃、奏は由莉に出会って激しく惹かれながらも、どこかで彼女を妬み憎んでいた。けっして幸せではない生い立ちですら、平凡を絵にかいたような自分のそれと比べて羨ましかった。傷つけたい気持ちになって、それでも彼女をこの手で抱きしめ、閉じ込めて独占したいと思った。  欧米人の血が濃い少年モデルが、由莉にとって特別な存在だと知った時、奏は彼が大人になる前に何とかしなくてはと焦った。彼らのあいだに恋愛感情が生まれてしまったら、由莉を手に入れることは難しいと思ったのだ。 「あんた、本当に由莉が好きなの?」  おそろしくきれいな顔の少年に詰め寄られた日のことは、今も忘れられずにいる。 「由莉じゃなきゃダメなの?」  薄汚い心を見透かされた気がして、答えられなかった。 「俺には由莉だけなんだ。だから、お願いだから取らないで!」  泣いてすがる彼を、奏は無視した。  自分だって由莉だけだと、たとえ嘘でも、どうして言えなかったのか。  あの時、断言できなかったばっかりに、いつか奪い返しに来られるような気がして、こっそり彼の動向をチェックするはめになった。海外で順調にモデルとして活躍している姿に、俳優としての自分は嫉妬を覚えたが、日本にいないことに安心もしていた。  その彼が今、奏と同じ世界で俳優として活動するために帰国して頑張っている。仕事とはいえ、由莉のサポートを受けていることは確かで、二人が一緒にいるところを見ると胸の中がざわつく。彼にとって由莉はいまだにかけがえのない存在のようで、二人にしかわからない世界があるようにも見え、奏は自分が邪魔者のように感じることすらあった。  彼らを再び引き離すには、思い切って子供でも作るしかないような気がする。それは由莉が一番望んでいることなのだが、奏自身は我が子を持ちたいとは少しも思っていない。だから、焦燥感にかられてそんなことをしても、絶対に後悔するのはわかっていた。 「潮時……」  いよいよその時が来たのだという思いが、奏の中で日に日に大きくなってくる。 「どうしたの?」  動きを止めた奏を、彩音がとがめるような目で見た。 「ちゃんと私を見てよ、奏さん」  からみつく腕に抱かれ、奏は彩音に口づける。 「見てるよ」  まがいものをいくら求めても、空虚な胸のうちを満たすことは出来ない。わかっていながら、今はそれにすがることでしかプライドを保てない。 ――卑怯で汚い嫌な男だ。  自嘲を打ち消すように、奏は獣じみた欲望に身をゆだねた。
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