第十一話

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 午後七時、由莉が電話をかけると奏はすぐに出た。 「今、マネージャーの車で東京に向かってるとこ」  いつもと変わりない口調である。  カオルからの知らせを受けてすぐ連絡を取ったのだが、奏はもう知っていたかのように落ち着いていて、対応については自分に任せて欲しいと言った。今日は実家を含め誰ともコンタクトを取らないで、夜また電話してと指示された。  タイミングが良いのか悪いのか、今日はロケの最終日だった。最終日まで残っていた関係者みんなで打ち上げをやることになっていたはずだが、奏は妻の不倫報道でそれどころではなくなり、帰京することにしたのだろう。 「どこにいる? 家?」 「うん、どこにも行ってない」  由莉もいつもと同じ調子で返した。 「あと一時間ちょっとで着くと思う」 「待ってる」 「晩メシ作っておいて。軽くでいいから」  奏の言い方はさりげなかったが、それは今までされたことがない要求だった。  肉体維持にストイックな奏は、日没後に固形物は食べない。どんなに遅くまで仕事して帰って来ても食事することはなかった。だから、由莉が夫のために調理するのはほぼ朝食のみで、食材や栄養バランスには気を使っているものの、手間ひまかけた料理など作る機会がほとんどなかった。 「わかった。用意しておくね」  由莉は理由をきかずに電話を切った。  キッチンへ向かうと、解凍した鶏むね肉にオレガノとタイムをすり込み、岩塩で下味をつけてスチームオーブンに入れる。  野菜を数種類と吊るしベーコンの塊を取り出し、粗めに刻んで炒めてから自家製のトマトソースとコンソメでスープに仕立てる。  ルッコラをちぎりモツァレラチーズとトマトを合わせてサラダにし、チキンの焼き上がりを見てマスタード風味のソースを作った。 「パンがないからパスタでも……あ、炭水化物はいらないかな」  由莉は独り言をつぶやく。一時間足らずで自分が出来る料理は限られている。  家事など何も出来なかった自分が、料理教室に通って基礎から習い、栄養学まで学んだのはすべて奏のためである。いつか作る機会があるかもしれないと、レパートリーも増やしてきた。それなのに、最後になるかもしれないこんな時まで、手早く作れる簡単な料理しか食べてもらえない。 「私の手料理なんて、最初から求められてなかったのかもね」  由莉は力なく自嘲した。  ダイニングテーブルにモスグリーンのクロスをかけ、白いリネンを重ねる。キャンドルを用意して、リーデルのワイングラスと銀製のカトラリーを並べていく。食器はジノリにした。  それから由莉は寝室のクローゼットを開け、淡いシャンパン色のワンピースに着替えた。奏にプレゼントされた服だ。  念入りにメイクして髪を整えたところで、玄関ベルが鳴った。 「きれいだね」  水色の小さな花束を手にした奏は、由莉を見ると目を細めて微笑んだ。 「ありがとう」  由莉が受け取ったその花はスイートピーだった。花言葉は詳しくないが、別れの花だと聞いたことはある。 「ちょうど、テーブルに飾る花がなくて寂しいなと思ってた」  由莉も目を細めて奏を見つめ、同じ微笑みを返した。  料理の並んだテーブルに、二人は向かい合って座った。奏がワインの栓を開けてグラスに注ぐ。 「乾杯しよう」 「そうね」  言葉少なだが、まるで結婚記念日か何かのような雰囲気で、ゆっくりワインを飲みながら食事した。  水色のスイートピーがかすかに甘く香り、キャンドルの灯りが仄かに揺れる。静かで穏やかな時間だった。 「ごちそうさま」  奏は一つ残さず食べ終えた。 「美味かった。由莉は料理上手だったんだな」  その言葉を聞いたとたん、熱いものがこみ上げてくるのを感じ、由莉は泣かないようぎゅっと強く奥歯を噛みしめた。  銀のフォークを置いて顔を上げると、奏と視線がぶつかる。 「今日まで俺の妻でいてくれて、ありがとう」  奏はスマートフォンを出して、テーブルにことりと置く。急激に空気が冷えた気がして、由莉は目を伏せた。 「これを見たことあるだろ?」
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