第十一話

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 由莉は黙ってうなずいた。 「なんで俺を責めなかった? 相手までわかっていながら」 「……怖かったから」 「何が?」 「浮気じゃなくて心変わりだと、言われそうな気がして」 「なるほどね」  奏はワインをグラスに注ぎ、あおるように飲み干した。それから大きく息を吐き、再び由莉に目を向ける。どこか冷たい感じのする薄ら笑いを浮かべていた。 「昔から由莉は受け身だったけど、裏切られたとわかった時ですら、自分から何もアクション起こさないんだなと思ってたよ。俺がつき合ってと言えば恋人に、結婚してと言えば妻に、引退してと言えば専業主婦に。抱く時も、いつだって俺が誘ってばかりで、おまえからは求めなかったもんな。悪いけど、愛されてるとは思えなかった」  身勝手な言い分に、由莉は悲しくなった。 「キャリアを捨てるのは簡単なことじゃなかった。あなたに望まれたから決断したのに」 「だから愛してると無理に思い込んで、俺から離れられなかったんだろ。すべてと引き換えにしたこの結婚を、失敗だと認めたくなかった。違うか?」 「失敗だなんて考えたこともない。私は本当に愛してたし、奏に愛されることだけを願ってたよ」 「じゃあ、なんで浮気を許容した? 嫉妬でおかしくなることもなく、俺の前でも普通にしてたじゃないか。不愉快でも嫌でも、目を閉じればやり過ごせる程度の感情だったんだろ?」  由莉は何も答えられなかった。奏の言い分が正しいとは思わないが、どうしてか否定することが出来ない。 「俺のどこを好きになった? 俺を見てると胸が熱くなったりするか? たまらなく抱かれたくて身を焦がしたことが?」  奏は薄笑いを浮かべたまま、言葉を失った由莉を眺めている。 「ないだろ? いいさ、わかってる。答えなくていい」 「……」 「由莉は俺にだまされたんだよ。事務所に大切に守られてて、言い寄る男に免疫なかったから。売名目的の俺みたいな男にだまされて、簡単に惚れさせられて、まんまと利用されたんだ」  由莉の目から一筋の涙がこぼれた。 「どうしてそんなこと言うの?」 「最後だから教えてやろうと思って。俺は芸能界でのし上がるために、人気モデルの白川由莉を利用した。好みのタイプだったし、自分でも恋愛に酔ったつもりで楽しめたよ」 「信じない」 「残念ながら真実だよ」  肩をすくめた奏は可笑しそうに続けた。 「昔、一人だけ、俺のたくらみを見抜いたやつがいた。でも、そいつは他人とうまく話せるスキルを持ってなかったから、事務所のやつに高宮は悪い男だと訴えても取り合ってもらえなかった。おまえ自身にもな」  奏は笑いながら表情を歪めている。どこか泣きそうにも見える顔だった。 「それなのに、今になってそいつにほだされて股開いて、俺を不倫スキャンダルに巻き込むとは驚いたよ。浮気の仕返し出来てけっこうなことだ」 「汚らわしいこと言わないで! ショーンとはそんな関係じゃないわ」  由莉が涙目でにらむと、奏は笑いを引っ込めて意外そうな表情を浮かべた。 「へえ、じゃあ、まだ由莉は俺しか男知らないのか」  夫の口から飛び出した下卑(げび)た物言いに、由莉は耳を疑った。 「そんな、いやらしい言い方……」 「ああ、おまえはこういうの嫌いだよな」  奏は冷めた顔をして、ゆっくりと立ち上がった。 「俺はもともと俗っぽいし、いやらしい男なんだよ。ちょっとぐらい下品で汚れてる方が気楽なんだ。そんなに清く正しくされると息が詰まる。うんざりだ」 「……ずっと、そう思ってたの?」  打ちのめされた気持ちで問いかけると、何の感情もない、見知らぬ他人を見るような目が由莉に向けられた。 「気づいてなかったのか?」  そう言われると、いつもどこか噛み合わない感じがしていたように思えてくる。自分にとって好ましくない状況を認めたくなくて、今まで目をそらし続けていたのかもしれない。 「男女のことに(うと)い奥さんに、もうひとつ教えてやるよ」  奏はふと思いついたようにテーブルをまわり込み、由莉の横に来た。 「俺が手を出さなかったら、由莉は清らかなまま大人になって、あいつと真っ直ぐ結ばれたと思う。あの時は、相手がまだガキだったから横取り出来たんだ。目的は十分果たしたし、本来の相手に返してやるよ。あいつのところに迷わないで行けよな」  テーブルに片手をついて身を屈め、奏は由莉の顔をのぞきこんだ。 「最後にキスぐらいしとくか?」  見つめ返したその顔は、たしかに見慣れた夫のものだが、まるで違った人間に見えた。だが、由莉にはそれが奏の本当の顔なのか、それとも演技しているのか、どうしてもわからなかった。 「はじめから、いつか離婚するつもりでいたのね?」 「やっとわかったのか。こんなスクープがあってもなくても、そろそろ頃合いだとは思ってた。これ以上、夫婦でいたってしょうがない。別れよう」  奏の声は、なぜか優しい響きを持っていた。 「私、あなたの子供を産みたかった。他の誰でもなく(かなで)の子供を産んで、思いっきり愛して育てたかった。言いたいことはそれだけ……怒ったらいいのか、それとも謝ればいいのか、お礼を言うべきなのか、全然わからない」 「おまえがしつこくねだったのは、確かに子供のことだけだったな」  つぶやくように言うと、奏は身を屈めて由莉の額に軽く口づけた。 「これでさよならだ」
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