十二話

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「あの、俺もう子供じゃないってわかってるよね?」  ショーンの声をスルーして、由莉はドライヤーを温風から冷風に切り替えた。 「うん、いい感じ」  ふんわり空気を含ませたショーンの髪は、ツヤを増して輝いて見える。  満足げにうなずいた由莉は、はずむような足取りで奥の部屋に向かった。衣裳部屋として使うことに決めたそこには、ショーンの私服がハンガーに吊るされてずらりと並んでいた。 「こんなに着ないと思うんだけど」  楽しそうに服や靴を選んでコーディネイトしている由莉を見ながら、ショーンはぼやく。  ミラノに来て数週間、由莉はマネージャーの山口と一緒に服飾品の調達に余念がなかった。すべてショーンのためのものである。 「モデルは私服姿だって大事なプレゼンなのよ?」 「わかってるけどさ」  由莉と暮らすようになってから、一度も自分で身につけるものを選んでいない。それどころか、髪を乾かすのも肌や爪の手入れも、由莉がやるといって聞かないのだ。  まるで子供のように守られ、至れり尽くせりの日々が続いているが、ショーンの輝きは目に見えて増している。 「ねえ、由莉」  ショーンは両手を伸ばし、背後から由莉を抱きしめた。 「俺のこと、ちゃんと大人扱いして?」  由莉は彼の腕の中で反転して、手に持っていたチョーカーをショーンの首に巻きつけようと手を伸ばした。 「屈んで」  おとなしく従うショーンを、由莉は愛しそうに見上げる。  チョーカーを巻き終えると、そのまま首に両手をまわして抱きついた。 「大好き。ちゃんと大人として愛してるよ。子供だなんて思ってるわけないでしょう?」 「ほんとに?」 「私がこんなに甘えられるの、ショーンだけなんだから」 「それならよかった。甘えてくれるの、俺も嬉しいよ」  ショーンは両腕で力強く由莉を支え、大きな手で優しく髪を撫でる。ずっとこういうふうに抱きしめたかった人が、今ここにいることが奇跡のように思えて、たまらなく愛しかった。  由莉の離婚が成立したのはほんの一ヶ月前、ショーンと一緒に日本を離れる少し前のことだ。共有財産のことなど取り決めなければいけないことが色々あり、由莉が何もいらないと主張しても、そう簡単には済まなかったらしい。 「ちょっと待っててくれる?」  ショーンは由莉から手を離すと、急いで自分の寝室に向かった。大切にしまっておいた小さな箱を取り出し、口元を引き締める。ついにこの時がと思うと、うっかり泣いてしまいそうだった。 「由莉」  気合を入れて彼女のところへ戻ったショーンは、片足を立ててひざまずき、小箱を差し出してふたを開けた。プラチナの指輪の天辺で、大粒ではないものの、けっして安物ではないダイヤモンドが七色に輝いている。 「結婚してください」  由莉の目に涙が浮かび、ハイと大きくうなずいた瞬間それは空を舞い、ダイヤモンドに負けないきらめきを放った。 「すごく嬉しい……ありがとう」  ショーンが左手の薬指にはめてくれた指輪を、由莉はうっとりと眺める。それから彼と目を合わせ、幸せそうに微笑んだ。 「健やかなる時も病める時も、富める時も貧しい時も、死が二人をわかつ日まで、あなたを愛することを誓います」  ショーンは結婚式の時のような言葉を口にした。 「私も……誓います」  そして、どちらからともなく自然にキスを交わした。 「愛してるって、何回言っても足りないかも」  由莉はショーンの胸に顔をうずめた。 「びっくりするぐらい、どんどん好きになっていくの……今はもうショーンが視界にいるだけで嬉しくて、勝手ににやけちゃう。一秒も離れていたくない。ずっとこうしてくっついていたい」 「え、そんなに?」 「うん」  年齢や照れやプライドなどというものは、ショーンの前ではどうでもよくなってしまう。なりふりかまわず、好き好き大好き愛してると叫びたくなる。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。 「嬉しすぎる」  ショーンは涙を浮かべてつぶやき、ぎゅっと由莉を抱きしめた。 「でも俺の方が愛してると思うよ。毎朝起きるたび一番におはようって言えて、一日中そばにいられるなんて夢みたいだ。目にうつるたび、見るたびに新しく恋に落ちてる感じがする。たぶん、もう俺、由莉がいないと一秒も生きていけない」 「ショーンって……さらっと殺し文句、繰り出して来るよね」  由莉が頬を染めたのを見て、ショーンも顔を赤らめる。  その時、開けっぱなしだったドアをノックする音がして、二人はパッと離れた。 「邪魔しちゃ悪いと思って待ってたんだけど、そろそろ時間なのよね」  にまにまと含み笑いしながら、山口が言う。  この一階から四階まで縦長のメゾネット型アパートには、今のところ山口も滞在中なのである。 「あんたたち、同棲してるくせにいつまで初々しいのよ。さっさと同じ部屋で寝たらいいのに。お子様カップルと暮らしてるみたいで、こっちが恥ずかしくなるわ」 「ど、同棲とは言えないでしょ、三人で住んでるんだから」  真っ赤になった由莉が怒ったような口調で言うと、山口はハイハイと受け流した。 「照れ隠しはいいから早く支度して。今日は大切な契約の日なんだから、遅れたら許さないわよ」 「わかってます!」  由莉は自分の寝室がある最上階へ上っていき、ショーンは衣裳部屋で彼女が用意したコーディネイトに着替える。  山口は上の様子をうかがいつつ、すすっとショーンの背後に近づいた。 「一応お話しとくけど、今日の契約が無事に済んだら、アタシはここ出るつもりよ。由莉ちゃんがついてれば、あなたは何でも出来るわよね? もうつきっきりでは面倒みれなくなるから」 「山口さん、まさか日本に帰るの?」  いきなり突き放すようなことを言われたショーンは戸惑ってふり向く。山口は首をふり、肩をすくめるジェスチャーをして笑った。 「人使いの荒いカオルの命令で、ヨーロッパでの拠点作りしなきゃなんないの。ミラノでもいいけど、理想はパリね。アタシも忙しくなるわ」 「今まで、沢山ありがとうございました」  頭を下げたショーンに、やめなさいよと照れた山口は、声のトーンをぐっと下げた。 「そんなことより、あなた、男としても頑張らなきゃダメよ。何のためにこんなファミリー向きの広いウチ用意したと思ってるの? すぐ子供が出来ても困らないようにって、配慮してあげたのよ。なのに、キスハグだけで満足とか馬鹿なこと言ってんじゃないわよ。由莉ちゃんの方が年上バツイチとはいえ、中身は十代の女の子みたいなんだから。そのへんは男のあなたからグイグイいかなきゃダメ。経験なくたってね、ベッドになだれ込んでしまえば本能でどうにかなるわ。カラダに素直に従って……」  山口は声をひそめてまくしたて、ショーンは顔を赤らめたまま何度もうなずく。 「ちょっと山口さん、また良からぬこと吹き込んでるんじゃないでしょうね?」  ヒールの音を響かせて戻って来た由莉は、二人の様子を目にすると疑わしそうに山口を見た。仕立ての良いシックなスーツをエレガントに着こなし、さりげなくブランド品のバッグやアクセサリーで武装している。 「さすが由莉ちゃん! もぉーばっちり! すごい敏腕エージェントに見えるわ」  ぐっと親指を立てる山口。まじめくさった顔に、たまらずショーンがふき出す。 「さぁ、行くわよ」  アタッシュケースをしっかり抱えた山口が号令する。  大きなドアを開けて外へ出れば、洗練された老若男女が行き交うミラノの街と、どこまでも澄み切った青空が広がっている。 「由莉」  ショーンが笑顔で差し出した手を、由莉はしっかり握って顔を上げ、晴れやかな表情で歩きはじめるのだった。 (完)
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