第五話

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第五話

「由莉さん」  明るい声に顔を上げると、ショーンが近付いて来るところだった。スタジオの扉が開いてスタッフ達がぞろぞろと廊下に出て来るのが見える。  密着取材がはじまって間もなく一ケ月。  由莉が撮影や演技レッスンに同行するのも、これで十回めになる。今日の撮影はマスコミ非公開ということで、由莉も中に入れてもらえなくて、廊下の隅にある休憩スペースで今までの取材メモをまとめる作業に没頭していた。 「休憩?」  由莉は持ち歩き用の小型のノートパソコンを閉じながら聞いた。 「うん。機材不調でこのままだと押しそうだから、ランチ休憩の間に調整するって」  ショーンのこの日の仕事は、首都圏に展開している百貨店グループのシーズン広告の撮影だった。以前からイメージモデルとして長期契約しているお得意様らしい。 「ショーンはケータリングでランチ済ますの?」 「まさか」 「そうだよね、愚問だった」  ショーンはちょっと肩をすくめて笑った。  モデルという職業は何より体が資本で、食事の内容は最重要事項とも言える。現場で一律に出される弁当やケータリングの食事を、無頓着に口に入れるわけにはいかないのだ。  由莉は時計をチラッと見て立ち上がった。 「休憩って何分ぐらい?」 「二時になったら再開するって」  時計の針は十二時半を回っている。 「じゃ、私もどっかでランチして来ようかな」 「一緒に行きます」  ショーンはにこっと小さく笑みを浮かべた。 「山口さんが用意してるんじゃないの?」 「いや、由莉さんと食べて来るって言ったから」  あまりにもあっさり言われ、由莉は呆れた。 「相談したいこともあるんで」 「私に?」 「そう。時間なくなるから行きましょう」  ショーンは由莉の背中を軽く押して歩き出した。 「強引……」  彼女は苦笑しながらも、どこに行こうか近くの店をいくつか思い浮かべた。この辺りには撮影スタジオや若い層に人気のショップなどが多く、由莉にとっては昔からなじみが深い場所だ。ストリート撮影もよく行われていて、おしゃれな街並みで知られている。 「あのカフェは?」  表に出ると秋晴れが広がっていて、由莉はまぶしさに目を細めた。ショーンはスタジオの向かいにあるカフェのテラス席を指さしている。 「あんな目立つところ、ダメに決まってるでしょ」  由莉はショーンとやや距離を取って歩き出した。スクープを狙うマスコミだけでなく、一般人がスマホで撮る写真にも気を付けなければいけない。火のないところから煙を出されるのはごめんだった。 「その路地の先に知ってる店あるから」 「さすが由莉さん」  ショーンはオリーブ色の目を輝かせて由莉を見る。 ――そんな目で見ないで。  由莉はさりげなく視線を外して前を向く。  再会して、一緒に過ごす時間が多くなると、ショーンは昔のように親しげな態度で接してくるようになった。もうお互いそれなりの年齢で、子供の時と同じではいられないのにと思いながらも、屈託のない素直さを見せられると無下には出来ない。  ショーンはひどい人見知りとはいえ、大人になるにつれ男性とは少しずつ話せるようになった。だが、女性が苦手なのは変わらないようで、相手が誰であっても、女性に声をかけられると固まってしまうのがデフォルトの反応だった。  それは所属事務所の女性スタッフに対しても同じで、付き合いの長いはずのカオルや子役時代の担当社員に対しても、いまだに気を許さず極端に言葉少なだ。だから山口のように気のきく男性マネージャーを付けられているわけで、彼がショーンの代わりに周囲とコミュニケーションを取って仕事を進めているのだ。  だが、由莉が知っているショーンは、けっこうやんちゃな部分もあって、泣いたり笑ったり感情豊かだった。子供の頃はわがままをぶつけられることも可愛く思えていて、お姉ちゃんぶりたくて応じることが多かった。  十代のほとんどをそんな風に過ごしてきたため、再会当初のぎこちなさが消えるにつれ、由莉の中でも慣れ親しんだ感覚が少しずつよみがえってきている。  なるべく一定の距離を保つように気を付けているが、無意識におせっかいを焼いたり、つい甘やかしてしまって、ハッと我に返る時もあった。世間から見れば、人気俳優の夫と結婚しているくせに五歳も年下のモデルと親密な仲だなんて、非難されても仕方がないことだろう。いい歳をして、弟みたいな存在だなどと都合の良いいいわけが通用するわけがない。  もしマスコミに目を付けられるような事態になれば、奏やショーン、それぞれの関係者まで巻き込んでしまい、彼らの仕事にも支障が出るだろう。由莉だけの問題では済まなくなる。そんな事態を招くわけには、絶対いかなかった。  二人は路地裏のこじんまりした和食屋に入り、一番奥のテーブルについた。個室ではないが天井から吊られた竹簾で各席が仕切られている。 「ね、たまには他の人とも一緒にごはん行ってみたくない?」  向かい合って座りながら、由莉は店内の他の客を気にして声のトーンを下げた。 「そんなの考えたくもないよ。食べるとこなんか、山口さんにだってほんとは見られたくないのに」  ショーンは眉をひそめた。 「ごはん食べながらおしゃべりするのって楽しいよ?」 「無理」 「じゃあ、現場で休憩の時、他の人とお話ししてみるのは? 仲良くなれそうなスタッフさんとか、よく声かけてくれるモデル仲間とか……」 「そういうの好きじゃない。由莉さんみたいな人ばっかなら考えてもいいけど」  しれっと答えて、ショーンはメニューを手に取った。  やや下を向いて視線を落とす彼は、まったくの素のままなのにひどく絵になる。長いまつ毛が頬に影を落とし、柔らかくウェーブがかった明るい色の髪が額にかかっている。陶器のように滑らかな白い肌に赤みの強い唇、丁寧に整えられた完璧な眉のライン。  こんな容姿に生まれたことを人は羨むかもしれないが、彼の場合は平凡な容姿の方が幸せだったかもしれない。どこに行っても、何をしていても、無遠慮な視線が注がれて気が休まらないらしい。 「俳優になりたいんだったら、少しずつ努力しないと。今はまだ若いからまわりも理解してくれるけど、十年後もそれじゃ自分で困ることになるよ?」 「玄米おこわと焼き鮭のプレート。これにする」  ショーンは小言をまるっきりスルーして、長い指でメニューをなぞった。由莉は仕方なく店員を呼び、同じものを二つ注文する。 「ドリンクはこちらからお選びいただけますが、何にいたしますか?」  店員が示す飲み物のメニューを見て、由莉はショーンに確認もせず決めたものを頼んだ。 「温かいほうじ茶でお願いします。先に持って来て下さい」  ショーンは嬉しそうににこにこしている。 「由莉さんといると楽だな」 「私はマネージャーじゃないんだからね」  軽くにらむ。 「本当に由莉さんがマネージャーだったらいいのに」 「ありえないでしょ」 「出来なくはないよね?」 「出来ないよ、何言ってるの」 「そんなに必死で否定しなくたって、わかってるよ」  真顔になったショーンは由莉を真っ直ぐ見た。 「由莉さんが傍にいて支えたいのは、あの人だけなんだって」 「……よく、そんな恥ずかしいこと言えるね」 「恥ずかしいことなの?」 「ショーン」  由莉はじっと彼の目を見返した。 「相談って何?」  良いことも悪いことも、夫との関係については何一つショーンに語るつもりはない。 「ああ、そうだったね」  ショーンは目をそらして小さくため息を吐いた。 「山口さんにドラマの話を受けたって聞いた。ついに俳優デビューするみたい」 「みたいって、そんな他人事みたいな言い方」 「実感ないから……ちゃんと出来るかわかんないし」 「わかんないじゃないでしょ。やると決まったんなら一生懸命やらないと」  困ったような顔でうつむくショーンに、由莉はつい身を乗り出してしまう。 「最初が肝心なんだから、山口さん任せじゃなく自分でも頑張った方がいいよ。ドラマの撮影なんて関わってる人間すごく多いけど、全員に自分から挨拶するぐらいの気持ちで行かないと。特に裏方のスタッフさんたちには可愛がってもらった方が絶対いい。先輩俳優には色々学ばせて欲しいって頭下げて……共演者いるんでしょ?」  由莉も昔いくつかドラマと映画に出演したことがあり、少ない経験だが現場のスタッフやベテラン役者の厳しさは知らないわけではない。 「いるけど、正直怖い」  ショーンは気弱な表情で、上目づかいに由莉を見た。 「芝居一筋の人とか、ちゃらちゃらしたモデル風情がって思ってそうで」  山口やカオルには言えない本音だなと由莉は思った。子供じみた不安だが、本人にとっては切実なのだろう。 「たとえ最初はそうだとしても、一生懸命やってれば認めてくれるよ。子役みたいには扱ってくれないだろうけど、ショーンは初心者だってみんな知ってるし、はじめから完璧なんて求められないから大丈夫。下手でもミスしても、やる気があるってことだけ、ちゃんとわかってもらえれば」 「そうかなあ」  海外で活躍してきたとはいえ、モデルしかしたことがない男がいきなり俳優デビューするのだ。あれこれ言われるかも……という不安を、考え過ぎとは言い切れない。 「由莉さんからもよろしく頼んどいてくれる?」 「なんで私が……」 「共演者の中で一番怖いの、高宮奏だから」  由莉は心臓がドクンと強く脈打ったような気がした。
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