第六話

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第六話

 小説ドラマはクランクイン間近で、初週から登場予定の俳優らは、ロケ地である東北地方に続々と向かっているらしい。 「じゃ、行って来る」  キャリーケースを携えた奏は、靴を履くと由莉を引き寄せ、唇を合わせるだけの短いキスを落とした。  一回目のロケは一ケ月ほどの長丁場だという。奏はヒロインの家族を演じるので期間中ずっと出番があり、終わるまで帰って来れない。 「体調に気をつけて、頑張ってね」 「ありがとう。由莉、ロケ先に取材来るんだっけ?」 「今回はショーンの出番ないから行かないけど、二回目は行く予定してるよ」  密着取材のことは、もちろん話してある。  メインキャストの奏とは違い、ショーンに与えられたのは限られた期間だけ登場する役だった。小説ドラマで俳優デビューというのは、本人にとっては大きなプレッシャーらしいが、色々な意味でこれ以上ないほど恵まれたチャンスである。出番はまだ先で、都内にあるスタジオでの撮影から入ることになっていた。 「あいつの場合、早めに現場入って雰囲気に慣れといた方がいいんじゃないか」  奏は薄く笑いながら言った。 「まさかこのドラマで共演するとは思わなかった」  彼が由莉の弟のような存在だったことを、奏は知っている。カオルからも直接、ショーンのことをよろしく頼みたいと言われたらしい。 「カオルさんの頼みじゃ面倒みてやるしかないな。あいつのコミュ障、ちょっとはマシになった?」  その口ぶりに何か嫌なものを感じたが、とがめて出がけの空気を悪くしたくない。由莉は流して微笑んだ。 「努力してるみたいよ。学ばせて欲しいって」 「俺に? そんなこと言えるようになったんだな。まあ、可愛がってやるか」 「いじめないでよ?」  冗談めかして言うと、奏は肩をすくめた。 「ガキのころのこととはいえ、由莉を取らないでって泣かれた印象が強いからな」 「いつの話?」  初耳だった。 「つき合いはじめた時。すごい目でにらまれたよ」 「それ、本当……?」  奏との交際は由莉の十七歳の誕生日がはじまりで、ショーンは当時まだ小学生だったはずである。 「由莉は弟みたいに可愛がってたけど、向こうにとっては初恋だったんじゃないか。あいつ、今は婚約者いるんだろ?」  ショーンの恋人が架空の設定だということは、事務所内でも数人しか知らない極秘事項で、奏にも言うなと口止めされていた。 「由莉に似てたりしてな」  夫の言葉がナイフのように由莉の心に突き刺さる――私に似た女ばかり選ぶのはあなたの方でしょう?  ざわつく胸の内から目をそらし、由莉は夫に抱きついた。 「どうした?」 「やっぱり、一ケ月も会えないなんて寂しい」 「俺だって本音は寂しいよ」  奏は由莉の髪を優しく撫でた。 「由莉、愛してる」 「……私も」  キスしようと顔をかたむけた奏から、由莉はスッと身を引いて離れる。 「わがまま言ってごめん」  明るい表情を作って夫を見つめ、手を振った。 「良い仕事してきてね」  情熱的なキスで誤魔化されるのは、もう嫌だった。  奏は新幹線で現地に向かうのだが、車で東京駅まで送ると言ったら、マネージャーが迎えに来るからと断られた。  由莉はそれを素直に信じられないでいる。マネージャーの他に、妻に会わせたくない同行者がいるような気がするのだ。  見送りを終えてリビングに戻ると、テーブルに置いてある薄い冊子が目に留まる。小説ドラマの発表会見で配られた資料だ。由莉はページをめくり、一人の若い女優に目をとめる。 「(さわ)彩音(あやね)……」  ヒロインの親友役を演じるその女優は、腰まである長い黒髪が印象的である。読者モデルから芸能界に入って、若い世代にはアイドル的な人気があった。  以前からテレビや雑誌で見かけるたびに感じていたのだが、彼女は若い頃の由莉に顔立ちまで似通っている。今まで奏が浮気してきた女達の誰よりも。 「二十一歳の子と不倫なんてバレたら、このドラマも降板させられるかもしれないし、まさかね」  由莉は祈るような気持ちでパタンと冊子を閉じた。
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