30人が本棚に入れています
本棚に追加
**
「いってー」
怪力暴食女の右ストレートを顔面に打ち込まれた俺は、『若干の脳震盪』という名目で授業を抜け出し、一階にある保健室でサボろうと階段を降りていた。
「いやぁ、ほんま元気そうで何よりですわぁ」
一階の階段下から、担任の鍵本の声が響いた。
いつも派手なポロシャツを着ている鍵本のファッションセンスは、出身である大阪独特のものなのか、鍵本流なのかは分からない。
だけど人を小馬鹿にした詐欺師然りの喋り方とデリカシーの無いツッコミは鍵本の性格に決まってる。声が無駄にでかいのも耳障りだ。
「あー、だりぃ。どっか行くまでここで待つか」
こんな時間に鉢合わせでもしたら、どうせ根掘り葉掘り尋問されて、説教まがいの長話を聴かされるのが関の山なので、俺は踊り場の段差に腰をおろして鍵本が通り過ぎるのを待っていた。
「それにしても突然でしたから、僕たちも驚きましたよ」
鍵本と喋っているのは、学年主任の宮部だった。眼鏡をかけたこざっぱりとした目鼻立ちと温厚な性格で、女子生徒からは人気だけど、怒ると漏らしそうなくらい怖い。
「個人経営ってのは大変っちゅーことですね。教師が天職でほんま良かったわぁ」
どーこが天職なんだ。こっちは転職して欲しいっての。
「鍵本先生は生徒からの信頼が厚いですもんね。だから有馬くんも先生を頼ったのでしょう」
は?
「まぁ有馬の性格からして、仕方なかったんでしょうねぇ。僕としては頼って貰えて嬉しい限りですけど」
『有馬』
二人の会話に出てきたその名前は間違いなく、一年前の夏休みが明けた直後、俺たちに何も言わず学校を辞めた有馬翔のことだった。
「また有馬から連絡あれば教えて下さいね」
「当たり前やないですか、一番に宮部先生にお伝えしますよ」
噛み締めた奥歯から、ぎりぎりと音が出そうだった。はらわたが煮え繰り返るっていうのは、このことだと初めて実感した。
親友だと思ってたのは俺たちだけか?
一年も連絡寄越さないで、鍵本には連絡すんのかよ?
「上等じゃねぇか」
立ち上がって握り込んだ手の平に、じわりと汗が滲んだ。俺は階段を駆け下りた。
最初のコメントを投稿しよう!