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客 相
舟宿の女将は、夢之輔を見るとからだを預けるようにしなだれ寄って、
「わ、か、さ、ま」
と妙に艶のある声を発した。
女将の玉江は、夢之輔の真の正体を知らない。
それに、夢之輔がここでは〈藤本〉の姓を名乗ったので、どうやら「殿様の御曹司」と勘違いしたようである。
玉江がいう“殿様”とは、藩公の華咲典膳のことではなく、〈藤本の殿様〉の意である。
なんとなれば、華咲家がこの地の領主となる以前は、藤本家が一帯を支配していたからである。
┅┅藤本家は、この一帯を源頼朝の時代から領してきた豪族の家柄で、徳川の幕藩体制下で領地を召し上げられ、新領主となった華咲家に中老待遇で迎えられた。体よく新領主に仕える身となったのだが、土地を愛する領民にとっては今なお、〈藤本〉の名は重いものがあった。
女将もその例に洩れず、夢之輔を藤本家の若様と思い込んだようであった。
あるいは、ここを定宿にしている舟頭や舟人夫たちをはじめ、女中や雇用人らに偵密の協力を請うため、あらかじめ弥七が口八丁手八丁で玉江を丸め込んでいたのかもしれなかった。
「ねえ、若さま、そのようにご浪人の身なりに扮してまでも御役目一筋とは、ほんに、ご苦労様でございますこと┅┅」
「や!」
玉江に見つめられて、夢之輔は赤面した。やや小さな唇をもごもご震わせた。
もっとも夢之輔が髷も結わず整えず、浪人の態をしているのは変装のためではない。常から、そのなりであることを女将は知らない。
「弥七さんから頼まれて、ざっと客相を見回してきましたけれど」
「客相……?」
「はい、この家業をやっておりますと、お泊まり客の顔をみるだけで、なんとなく判るものがあるのですよ」
「さようですか」
「さようでございますとも」
合いの手を入れるように玉江が応じる。初な夢之輔との掛け合いをどこかで愉しんでいるかのようである。
女将の直勘では、奥の広間に居る三人の浪人と、雑魚寝部屋にいる見慣れない行商の親子連れ、幕領から来た鋳物師らの職人数人があやしいようだ……と告げた。
旅客のほかに、舟人夫が十二人。
かれらを束ねる源吾という名の頭は、華咲藩の関所役人手代も兼ねている。
手代……というのは、藩士ではないものの、その土地の有力者や人望厚き者が選ばれるのが慣例である。
渡し舟は道脈の要であって、向こう岸には幕領代官所の出先があり人の往来は厳重に監視されていたが、大橋が使えなくなって以来、華咲領側の関所は用を為さなくなり、源吾のような顔役に手代を兼ねさせることが多くなった。
「┅┅源さんには、若さまのことはまだ伝えてはいませんが┅┅」
「いえ、こちらから会いにうかがいます」
「あら、そのような女人のような口調では、源さんには軽くあしらわれてしまいますよ。あれはあれで、芯の強い方ですから」
急に低声になって玉江は、頬を赤らめた。おやおやと夢之輔は驚いた。
どうやら、源吾と玉江は訳ありの仲のようである。そのことぐらいは夢之輔にも容易に察することができた。
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