相 対

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相 対

 雨は斜を描きながら容赦なく屋根瓦をうち据えるように降ってくる┅┅。  この時代。  まだ瓦葺きの宿は珍しく、それには理由があった。この舟宿は、もとは藤本砦のひとつであって、それが廃棄される前に資材をかき集めて建て直されたものだからだ。  この年、寛文五年(1665年)は、徳川家康五十回忌にあたる。  四月十七日のことである。  盛大な法要のために各藩に幕府が課した莫大な費用拠出のために、華咲(はなさき)藩も例外ではなく苦しい財政のなかから()()りをしなければならず、その(ほころ)びの一端が顕著になりはじめていた。  すなわち、世情不安定。政情不安、とも言い()えられるだろうか。  ┅┅この年の一月、落雷のために大坂城天守閣が焼失した。  また、一月から二月にかけて、地方では、名主(なぬし)や富豪百姓、現場役人の不正が目立ち、幕府代官所や各藩の勘定(かんじょう)(がた)役人のもとへ訴状が出される事態が相次(あいつ)いだ。  五月、大地震が京都を襲い、二条城石垣や二の丸殿舎が破損した┅┅。  家康の死後から五十年。  戦乱は終息したとはとえ、世はまだまだ騒然殺伐(さつばく)としていたことは事実であった。  ┅┅夢之輔ですら、そのような空気は肌で感じることがある。  まして、夢之輔は、京の山奥で育った。  師匠の無明斎に連れられ、淀川を下って大坂の御城を、船着き場の八軒家(はちけんや)から、その目で眺めたこともある。  このことは、藤本左京大夫も知らない。誰にも告げてはいなかった。  まして、陰陽師の名門·土御門(つちみかど)家の血脈に連なる無明斎の直弟子であること、産まれてすぐ(みかど)の手によって弑殺(しいさつ)される寸前に、ことを知る者は、華咲藩領では藤本左京大夫一人(いちにん)を除いて誰もいない┅┅。  
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