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面 罵
(仇討ちとは……)
かつて夢之輔は京でもそんな騒ぎを視たことがある。
一条戻り橋の上であった。
浪人二人が抜き合い、そのまま同時に倒れた。瞬息の出来事で、腕が拮抗しているときには、往々にして悲惨な相討ちになる。が、ともに事切れることは稀である。
たしか、そのおり、師の無明斎はこう語ったはずである。
『┅┅相手の腕を見切って、かなわぬと感じたら、ただ、ひとつ、勝つ妙手がある。それはの、一目散に、逃げることじゃよ』
負けて勝つ。
逃げて勝つ。
師の無明斎はそのようなことを教え諭してくれた。
いま、見知らぬ浪人から仇討ちの助太刀を頼まれても、やすやすと引き受けることなど夢之輔にはできない相談というものであった。
当然のことだ。
しかも。
得体の知れないもう二人の浪人の挙動も不審だった。
「┅┅それがし、小野寺次郎右衛門と申します」
そう名乗ったのは、仇持ちの浪人で、備中松山藩士だと明かした。江戸藩邸で同僚に兄を討たれたのが十二年前。それから仇を捜し追い求めてきたらしい……。
「十二年!」
思わず夢之輔は嘆息した。
「いえ、元服を済ませてからのことですから、ほぼ十年……。この止まない雨のおかげで、憎き仇と相見えることができました」
小野寺の口調は、すこぶる平らかで、気負い立ったものは含まれていない。
小野寺はどうみても、番方ではなく、役方の侍であろう。番方とは、軍事のことを指す。帳面仕事や行政管理が、役方である。〈役人〉の言葉はここから生まれた。
「仇は、いずれに?」
つい身に詰まされて、気づいたときには夢之輔の口から出ていた。
なにも依頼を引き受けたわけではない。
けれど、興味は尽きないのだ。
想像だにしなかった出来事のために、おのが運命を狂わさせられてしまう不運というものは、夢之輔にとっても他人事とはおもえなかった。
そのとき……である。
音を響かせて襖が開かれたかとおもうと、血相を変えた男が飛び出してきた。
舟人夫を束ねている源吾であった。
「仇討ちの相手は……他でもない、このわしだぁ!」
源吾が夢之輔を睨みながら、叫んだ。
「や!」
唖然として夢之輔は源吾を見上げた。
「藤本の若君かなにかは知らねども、要らぬ口出しは無用に願いたい」
「あ!」
「おぬしは、や、とか、あ、としか言えぬのか! ええ、藤本の御曹司どのよ、大怪我のもとだ、雨が止めば、作法通りに立ち合う所存だ。そちらも、雨が止んだら、早々に引き払われるがよろしかろう」
「いや、わたしは、藤本家の若君でも御曹司でもありませぬ。ただの居候なのです」
「な、なにぃをぉ!」
今度は源吾のほうが唖然として、唾を散らして、なにやら喚き出したが、その逐一までは夢之輔の耳朶には届かない。
なんとなれば、もう二人の浪人が口を挟んできたからだ。
「おお、これはこれは、おもしろうなってきよったわ。のう、われらは、舟頭に身を落として世の冷たい風をしのいできた、そちらの御仁に助太刀いたすとしようかの」
「おお、それがいい!もっとも、それなりの金子は所望させてもらうがな」
二人の浪人が口々に喋り出した。
当の小野寺次郎右衛門は、表情を変えずにその場に縮んでいた。まるで調度品になったかのように半畳の場を占有している。
それもまた不可解である。
夢之輔は笑うこともできずに、事が意外な展開をみせたことに驚いていた。
「┅┅それは、百人力でございますな」
そう言ったのは、源吾であった。
「ま、いずれにせよ、この豪雨は、まだ数日は止みますまい┅┅しばし、呉越同舟といきましょうか」
そんなことまで口に出して、源吾がその場の昂りを納めた。
その様子を障子越しに女将の玉江が蒼ざめて立ち竦んでいるのを夢之輔は見逃さなかった。
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