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10
吹き抜けの非常階段。
二階と三階の踊り場のようなスペースで、彼はへたり込んでいた。
投げ出された素足が土埃で汚れている。
……本当に、裸足で逃げてきたんだ。
彼は目だけで私を認め、ぎょっとしたように一瞬肩を震わせた。
虫の鳴き声がこだましている。
少しの間、私達は見つめ合っていた。
切れかけの蛍光灯の光で、いくぶん彼の顔がよく見えた。
眉毛が細い。
……じゃない、顔の左半分。
顎からエラにかけて赤黒く腫れている。
真一文字に結ばれた唇の端には血がこびり付いていた。さっきは全く気付かなかった。
「……大丈夫? すぐに警察呼ぶ」
駆け寄る私に、彼は心底うんざりという顔を向けた。
「やめてよ。ケーサツとかマジでメーワク」
「でもすごい腫れてる。骨折れてるかもしれない」
「折れてねえ。いいからさっさと行けよ」
シッシと手で追い払われ、私はかえって強気になった。
「行かない。私、家出してきたの」
「……家出?」
ゆっくりと昏い目を上げ、鼻で笑った。
「お前んち知ってるよ。タワマンだろ、駅前の。金持ちはいいな」
冷たい壁が突き立てられた。知ってると言ったその声で私を断絶する。
しばらく声が出なかった。
「……別に、金持ちじゃない」
やっと出た言葉に嫌気が差した。精一杯の反応だった。
「帰れば誰かいて、メシが出てくるヤツはみんな……っつー」
唐突に言葉を断ち切り、顔をしかめて頬を押さえる。
今度こそ私はスマホを掴んだ。
「やっぱ警察呼ぶ。や、救急車」
「ちょっとジュース買ってきてくれる」
「え?」
「出てすぐんとこに自販機あるからよろしく」
そう言ってスウェットのポケットからくしゃくしゃの札を何枚か取り出し、一万円札を抜いて突き出した。
その一連の無駄のない動きに、私は血が冷えた。
エスの金。持ち逃げ。
後ろめたさなんてとっくに打ち棄てた、澄みきった目。
振り切るように私は踵を返し、夢中で階段を駆け下りた。
頬がヒリヒリする。
湿った夜風が肌にまとわりつき、せき立てられるような苛立ちを感じた。
何かのステーションみたいに、赤い自販機が立っていた。
光る面と向き合い、息が上がっていることに気付く。
……そういえば、私は走ってきた。
いつの間にか痛みが引いている。
骨が折れてないことは分かっていたけど、捻挫でも打撲でもなさそう。
ほら、やっぱり私は大丈夫。
力を入れて口角を上げた。
お金を入れるところに千円札の記号しかなくて、だめじゃん、と思った。
そのお金じゃ、だめだよ。
財布から百円を出し、一番でかいマウンテンデューのボタンを押した。
ガコンと落ちる音が響き渡った。
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