あっちとこっち

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ここへ来るのは、まだ数回。 灰色の扉を朔良は、いとも簡単に開けて部屋に入った。 なんとも簡単な奴だと、我ながら思う。 騙されやすいんだろうかと、初めて自分に対して疑いを持つほど、この数回で事務所(ココ)の見方が大きく変わっていた。 「朔ちゃん、暇なん?」 「友達といましたよ。でも別にいつでも会える奴なんでこっち来ました」 「なんやそれ。友達は大事にしぃや」 KANは元々細い目がなくなるくらいに目を細めて笑い、ダイニングに座るよう促した。 「コーヒーでえぇ?」 「あ、はい。すいません……」 「いつまでそんな風に言うてくれるかな」 「どういう意味っすか?」 「りっちゃんも最初はそんな感じやってんで。いつの間にかあんな自由人や」 コンとテーブルにアイスコーヒーを置き、そしてバサッと、その隣に資料を置いた。 今まで、撮影前に呼ばれたことなどない。撮影に呼ばれて初めて、絡む相手を知り、そして内容を知るスタイルだった。 「今回はな、ちゃんと説明せないかん。」 「なんでですか?」 「ちょっとだけハードなやつやから。これ知らんでやれ言われたら俺でも辞めたくなるわ」 KANはスッとその資料を差し出した。 「構えんでええんやけどな……今度は襲われる系や」 「襲われる? 誰が?」 「朔ちゃんや」 「は?」 最近、言葉を理解するのに時間がかかる。 襲われるとは、いったいどういうことか。 誰に、襲われるのか、どこにその、需要があるのか。 確かに、そんなAVが世の中に溢れていることは知っている。演技なのか本当なのかわからないようなものもたくさんあって、それを好む人もいるんだろうが、自分には、見ていて気持ちの良いものではない。 朔良の頭の中を、ぐるぐると思考が巡る。 「え、それ誰得ですか? 需要あるんすか?」 いつでもKANは、穏やかに丁寧に、疑問に答える。 面倒見が良くて、気を遣えて、常に明るくその場を盛り上げる。 この仕事ぶりが、信頼を厚くする。 ・ ウチの作品には2種類の客層がいる。 ホンモノ志向の人たち。これはゲイの人が多いな。 それから、男性同士の恋愛を好む女性たち。 「ちょっと待って、女性?」 「知らん? 腐女子ってやつ」 「知らん」 腐女子ってのは、BLを好んで漫画を読んだり小説を読んだりしている女性たち。 「そんな人いるんすか?」 「おるよ、結構多いで」 「まじか……」 で、今まで朔ちゃんが作ってきたのは腐女子よりのBL色の強い作品。今度のは、ガチ向けの作品や。 モデルのタイプも全然違う。 モデルの顔や体格とか、まぁ色々あんねんけどな、大体出る作品は決まっとる。でもたまぁに畑チェンジすることもあんねん。弦ちゃんは最初あっちに出てたんやで。1回こっちの作品に出たら人気出ちゃって、最近はすっかりこっちにおる。 「あっちとかこっちとか……スタッフも違うんすか?」 「違うで。朔ちゃんやるなら初めてやで俺も立ち会うけど、んー普通の会社で言う部署違いみたいなもんやな」 「知らなかった……」 「こっちはこじんまりとやっとるでな。まぁでも、こっちのファンにもガチなゲイはおるし、こっちのファンの子らもあっちの作品見とる子もおる」 「なんかすごい世界っすね……」 「金は、多めに出せるで、部署は小さいけど会社は大手やねんで、ウチ」 * 知らない世界が、この世にはどれだけあるんだろうと思った。自分がいかに、狭い世界で生きてきたかを思い知らされる。 「言っとくけどな、断ることもできんで」 キツイ撮影ということだろうか。 提示された金額も、今までよりも多い。 それの意味するところは、そういうことだろう。 『結構キツイこともやらされたけど』 この前凌空が言っていた。 それでも、ここの人たちが好きだと。 「やります」 断ることもできるのに。 断らない理由が、自分でもわからない。 この世界に入った時からずっとそうで、ただ、流されているだけなんだろうか。 迷わずやりますと言った朔良を見たKANは、「朔ちゃんなにを目指しとんのや」と苦笑いして、そして、「ええ子やな朔ちゃんは」と、コーヒーをコクリと飲んだ。
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