瞼を閉じてはならない

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瞼を閉じてはならない

1  もう九月を過ぎてしまった夜の空気は、未だに蒸してはいるものの多少湿度が落ち着き始めていた。  浅野と五年振りに再会して、一ヶ月以上過ぎている。三矢はスマートフォンを取り出し、眺めてからポケットに戻した。そして結局、また取り出してしまう。着信履歴に目当ての人物の名前はあまりなくて、発信履歴からその人の名前を見付けた。もっとも、探さなくても一番上に、彼の名前はあった。親指でそれをタップして、スマートフォンを耳に当てた。耳を塞がれる感触の内側から、コール音が流れて行く。 「はい」  待たなくとも、その声は三矢に届いた。特に機嫌の良し悪しも分からない、平坦な声だった。 「オレです」 「浅野です」 「はは! 何それ」 「何って会話だろ」  三矢が含み笑いを漏らしていると、電話口の向こうから微かに、ライターの着火ボタンを押す音が鳴る。煙草に火を点けたのだと分かった。どうした? 浅野が続いて聞いたので、あーうん、三矢は多少口籠る。 「仕事中?」 「うん」 「いつ頃終わんの?」 「八時くらい」  へえ、そう言ってまた、三矢は口を噤んだ。未だに距離を測ることが上手く出来ない。何しろまだ、再会して一ヶ月。 「なあ、だから何なの」 「あの! 終わったら! 飯でもどーですか!」  三矢が声を大きくすると、珍しく浅野も屈託なく笑った。 「いいですよ。なるべく早く終わるようにします」  じゃあね、浅野はそう付け加える。切られ掛けた所で三矢は、浅野の職場まで行くと告げてから通話を終えた。疑いたくなるほどスムーズなやり取りに、拍子抜けしてしまう。三矢はスマートフォンを眺め、少しの間その場に立ち止まった。持っていたスマートフォンは、浅野と会わなかった五年の間に、ガラケーから変わってしまったものだ。それほど長い時間、浅野とは一切交わることが無かった。久々の再会は現実に起きたことなのに、季節が夏から変わってしまうとなぜか、あの五年の方が色濃く映ってしまう。  止まっていた足をようやく進め、駅の方向に歩き出した。浅野の職場は藤沢方面にあった。三矢の職場であるS高校から彼の職場まで、最寄駅から電車と徒歩で三十分程度掛かる。今は午後七時半、浅野の言う「八時くらい」にはちょうどいい時間だった。江ノ電が停まる小さな駅は、時間帯もあってか人は多かった。ちょうど良く電車が来て、三矢はそれに乗った。車内はそれなりに混雑している。吊革を掴み、走り出す電車の揺れを、自然と動く体と共に感じた。空調の整っている長細い箱の中で、三矢は小さく息を吐いた。  浅野と会うのは、再会してから三度目になる。前回会ってから、もう二週間以上経ったのではないだろうか、指折り数えるなんてことはしないけれど、互いに仕事を持つと、実態はこうなるらしい。三矢はそれを、最近知った。思い返せば浅野が就職した直後、二人はほぼ会わなかった。その頃の自分を、今でもあまり思い出したくない。それほど三矢は当時、荒れていたのだ。黒歴史とは正にこれ、掻き消したくて強く目を瞑る。追いやってみても、参りましたと白旗を上げるしかなかった。あの頃働き始めた浅野のことも三矢は、苛立ちや歯痒さを持て余している少年としか見ていなかった。本当は違ったのかもしれない。その本質もあの頃は、知ろうともしなかった。  ともかく三矢にとっての浅野は、高校生のイメージが強い。勤労学生で、変に生真面目なのにやんちゃな男。それが大きかった。今は違うのだ。電話を掛けても会話にはなるし、刺々しさも消えた。ふと見せる表情は柔らかくて、口調も粗暴さが多少抜けている。五年の時間はそんなにも長いものだったのか。三矢はきっと、今の浅野を知らないから思う。知らないことが今もまだ、多過ぎる。  十五分ほど電車に乗り、藤沢駅で降りた。改札口を出て、それからまた十五分程度歩く。その間に擦れ違う人は疎らに居て、見知らぬ他人は、同じように他人のまま通り過ぎる。つい一ヶ月より少し前まで、三矢と浅野は、擦れ違う他人のようなものだった。いや、擦れ違うことさえなかったのだ。未だに夢現に思うのは、仕方ないことじゃないのか。  時々頬をなぞる、湿度を帯びた風だけが、三矢にとっては現実味を帯びていた。あと、キーケースに繋がれた、浅野の部屋の合鍵が。  歩いていると段々と、首元がじっとりとする。からっと寒くなる季節には、まだ程遠い気がした。  しばらくして「永瀬モーター」の看板が見える。ここへ来るのは初めてではなかった。再会してから一度だけ、押し掛けるように浅野を待っていたことがあった。それが、二週間以上は前の話だ。あれから見える景色も何も変わらないのに、三矢の目に見えるものは違った。何が、と聞かれれば分からない。ただ、ここへ来てもいい権利が、差異を感じさせるのかもしれない。今はもう、整備工場も事務所の電気も消えていて、三矢は辺りを見渡した。駐車場には、浅野の車も停まっている。ルーフの上に、白い煙が舞っていた。暮れて薄暗い景色に、妙に映えて見えた。 「浅野」  この声の大きさじゃ聞こえない。そう思ったのに、車の横から、ひょっこりと姿が見える。煙草を咥えた浅野だった。軽く手を上げたのを見て、三矢は小走りで近寄った。ふと鼻の横を過ぎる匂いに、あの頃、口論さえ出来ないほど苦み走った日々が過ぎる。 「よう、お疲れさん」  浅野の口調は、三矢の心の中にぐりぐりと迫って来る。ただの挨拶が、声の柔らかさが違うだけで、全く違うものに変わってしまった。  車乗って、浅野がそう言って、運転席のドアを開ける。三矢も流れるままに助手席に座った。この車にも、当然慣れない。まず、三矢の中で浅野が乗るのはバイクだからだ。誤魔化すように、さっとシートベルトを着ける。 「何食う?」 「あー、えーっと、何食うかな」 「あんた決めてねえのかよ。食いたいもんあったから誘ったんじゃねえの?」 「は? バカ? お前バカじゃね?」  これだからこいつは、三矢は首を擡げた。飯食いたい前提でお前誘うの、思わず溜息を吐くと、浅野は首を傾げた。それからシートベルトを着けた後、あ、と小さく声を出す。 「ああなるほど。そういう」 「何だよ」 「会いたかったってことか」  暗がりの車内で、三矢はぎょっとして口をぱくぱくと開けた。浅野を見ても、エンジンブレーキを下げてギアチェンジするだけで、表情の変化は見えない。ゆっくりと動き出す中で、ついさっきの会話は呆気なく流れてしまったようだった。 「じゃあラーメンでも食う? アパートの近くのラーメン屋」 「お前とメシ食うとラーメンか定食率高えな」 「文句言うなら考えとけよ」  呆れて笑う浅野の横顔を見て、耳の下に見えるエラを見て、この角度いいな、なんて考えてしまう。一瞬の隙に三矢の目に映る、口元を緩める浅野に、もうラーメンでも定食でも何でもいい、そんな間の抜けたことが浮かんだ。そうか、何でもいいんだ、余りにも突飛な思考が浮かんだ時、横顔のエラの角度に見惚れた時、三矢の中に訳もなく淀んで潜めていた足枷が、すっと抜けて外れた。この距離に居ることが、一ヶ月前から普通になってしまった。道端で擦れ違うこともなかった二人では、もう無くなったのだ。
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