第2ボタンのない絵

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 空に張った青い膜に張り付くピアノの鍵盤みたいな軽い白の線が狭い窓から覗いた。  仰げば尊し、わが師の恩。  そんな風な恩を感じるような場面は、少なかったように思う。自分の中で完結するタイプだから、誰かと深く関わろうとしない3年間だったから。けれど――。  教えの庭にも、早幾年。  時間だけは、歌と同じで音に流れてあっという間に過ぎ去っていく。窓の外の小さな空にのっぺりとくっついていた白い塊も、すぐに姿をくらました。伴奏と伴奏の間に、風が吹く。その風に、この体育館の外では、桃色をした斑点が無骨な砂の上で舞っているだろう。いつか、ここにいる生徒たちが同じように砂の上を滑ったように。  いざ、さらば。  その言葉だけが、重くのしかかった。  パイプ椅子が合唱を終えた後なのに、司会の一言で一斉に声を上げた。まるで、隊列を組む軍隊の行進みたいな気配をともなっている。ライフルの代わりに黒い革製の筒を持った数百人のこわばった表情が、厳かな雰囲気を作り上げていた。  どうにも上滑りしてしまう校歌の斉唱が指揮棒によって掬い上げられて、ふいに途切れると、遠くから鼻をすするのが聞こえた。授業中に聞こえるよりもずっと耳のそばに響いてきて、胸の鼓動に拍車をかける。それを皮切りに、儀式の終わりの予兆が流れ、紅白の垂れ幕に囲まれた会場の中に、どこからともなく複数の涙の音が零れてくる。  卒業生、退場。  手が、声が、脚が、震えそうだった。  隠してきた感情が悲鳴を上げる。その生涯を、一度も外に出ずに終わる可能性の前で、雫を落とす。  儀式なんて、形だけのものだと思っていた。ほんの数時間に、3年という時間をまとめることなんて、簡単なことじゃないから。「終わり」の季節に新しい風を吹かせるための、たったそれだけの儀式。  日々を束ねた匂いの独特なアルバムが配られる。いつもうるさい教室の中で、いつだってろくに聞いちゃいない担任の話を、その時だけは真面目に聞いている、目の赤い生徒たち。まだホームルームの始まっていない教室からは、荘厳さを粉々にするような喧騒が窓を叩く。担任の声は苦笑を引き連れて、震えた。  我ながら、ありきたりだな、なんて思う。  視界の端に映る短く揃えた髪。いつも目で追っていたから分かる、その独特な笑い声と人懐こい笑みが、足踏みする心を刺した。涙、流してるのかな。先生の話、聞いてなかったやって笑うの、もう見れないのかな。悪い、宿題みせてなんて悪戯めかした調子ですぐに俺の机のそばに来るの、もうからかえないのかな。  そう気づくと、今更だけど泣けてくる。 ――なんてことない日々の、なんてことない会話全てが、君との事全てをいろはで数える時間でした。  もう、過去形で話さなくちゃならない。  まだ、現在にとどまる想いも、今日が終われば――。  最後の号令がかかると、泣き笑いで上から塗りつぶされた、教室の日々を象ってきた日常が戻ってきた。それきり、もうこの場所にとどまる事のない日々。 「……っ」  みんながいなくなって、終りかけの「いつも」の2人の時間になったら、言おう。それまでは、まだ隠していよう。  最後の一言を。
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