《前》川のほとり

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

《前》川のほとり

  旅をしているビロードのように深い黒色をした犬が、ノホリポという国の境を流れる大きな川に行き当たりました。  水を飲もうと、背の高いパピルス草の茂みをかき分けて、その川のほとりに下りて来たのでした。  水を飲んでいると、川の流れと草を揺らす風の音に乗って、瑠璃(るり)色の硝子のように透き通った鳴き声が聞こえてきます。  声がする川の向こう岸を見ると、ふわふわと真っ白な毛並みをした雌の若羊が歌を歌っているのでした。  思わず黒犬は、大きな声で雌羊に呼びかけました。 「雪のように綺麗な毛並みですね、羊のお嬢さん」  突然声を掛けられて雌羊はびっくりしました。それでも、川の流れはたいそう激しく、とても渡れそうもないほど遠くの川岸だったので、安心して声を返しました。  なにより、雌羊はビロードのような黒い色が一目で気に入ってしまったのです。 「雪ってどんなもの、狼さん」  犬はとても良い耳をしています。向こう岸の雌羊の声も、易々(やすやす)と聞き取れました。 「狼じゃないよ、ただの犬だよ」 「騙そうとしても駄目。そんな黒い色をした犬なんていないわ」  雌羊は白い牧羊犬しか見たことがなかったのです。  黒犬は笑って答えました。 「まあ、どっちでもいいさ。雪って、空から降ってくる綿毛のように白いものなんだ」  旅人の黒犬は異国の地で見た雪の景色を、雌羊に語って聞かせました。それはとても神秘に満ちた幻想的な光景の話でした。  雌羊はこの土地の放牧地でしか暮らしたことがありませんでした。それで、黒犬の話す異国の風景にすっかり魅せられてしまいました。魅惑的な旅行の話のお礼に、よく通る綺麗な声で、黒犬に子守唄を歌ってあげたのでした。  翌日、黒犬は昨日と同じように川のほとりに下りてきました。もしかしたらと思っていたのですが、向こう岸に雌羊が待っていたのです。  黒犬はペルシャの大きな市場の話を、旅芸人の真似をして、抑揚をつけ声を張って、語って聞かせました。  大道で繰り広げられる道化の面白可笑(おか)しい滑稽芝居の話に、雌羊は笑い転げました。  そして、お礼にまた素敵な声で黒犬に歌を聞かせたのでした。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!