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 珍しいことに雨が、降っていた。それも叩きつけるような激しい雨だ。  「雨が降ると不吉なことがおきる」と言い伝えられているこの地において、これほどの雨が降った日には、外に出る者など猫一匹たりともいはしない。  降り続く雨のせいでびっしょりと濡れた毛皮のフードを外すと、男は一息つこうと明るいブラウンの前髪を掻き上げた。普段ならたちまち凍り付いてしまう危険な行為だが、雨が降るほどの高さのこの気温ならば全く気にならなかった。むしろ、ポツポツと頭皮に当たる雨の感覚が新鮮で楽しささえ覚えていた。  ーー確かアレナ・レッシュベルの家は、この森を真っ直ぐに抜ければ見えてくるはずだったな。  束の間の休息を終えると雨ではしゃいでいた気持ちなど、どこかへ消え去ってしまっていた。人一人が通れるくらいの道にはまだ雪の絨毯がしっかりと敷き詰められており、道の両端に植えられた針葉樹が大粒の雨から雪を守っているようだった。  男は、今一度フードを深く被ると、濡れないようにコートの下に入れた革の鞄の在り処を確かめた。  薄暗闇に吐く息は、やはり白くない。  再び走り出した男の視界には同じような景色が通り過ぎていく。等間隔に並べられた樹木にひたすら真っ直ぐな道。昨日降ったばかりの柔らかい新雪だからこそ足に掛かる負担は小さいが、視覚的には永遠に続くような道に感じさせる。踏み固められた道ならばそれなりの凹凸や傾斜があるものなのに、表面を覆うだけのこの雪は見分けがつけにくい。  ふと、男の脳裏に馬鹿げた空想が浮かんだ。これも魔法使いの仕業なのではないかという有り得ない空想だ。このまま真っ白に続く道はどこまでも果てがなく一度入ってしまえば逃げることができない。あるいは、走っているように思えて実は足踏みをしているだけで、走っているという幻影を見せられているのではないか。  ーーなにせ戦争に駆り出された優秀な魔法使いを2人も輩出している家系だ。侵入者を防ぐためにいろんなトラップを仕掛けていてもおかしくはない。  と、そこまで空想を繰り広げたところで自嘲気味に笑うと首を横に振った。  そんな魔法は聞いたことがないし、仮に何かしらの魔法が張り巡らされていたとしても、その効力は何日も前に消え去っているはずだった。  急に肩に掛けた鞄の重みが増した気がした。入っているものに重さなどないのにも関わらず。  ーー視界が開けてきた。あと少しか。  森を抜けた先は小高い丘になっていた。雨で溶けて柔らかくなった雪面を登りきると、急にその家は現れる。  雪にも負けない白肌の外壁に頑丈そうな赤煉瓦の屋根と、どこにでもありそうな外観。小さくもなくかといって大きいわけでもない家には窓が3つついており、そのうち正面の一番大きな窓から橙色の光が漏れ見えた。  男は、ようやく着いたと安堵の息を吐きながら扉をやや強くノックする。3回ノックしたところでバタバタバタと足音が大きくなり、ドアが開かれた。随分と古いのだろう軋む音がする。  出てきたのは、目尻や口元に薄くシワの見える丸顔に、燃えるような赤い瞳と髪の毛。  男は顔を強張らせてから、フードを脱いだ。滴る雨がさらに勢いを増していた。  ーーレッシュベル。アレナ・レッシュベルさんですね。  ーーどうか、やめてくださいませんか。そんな険しい顔を。こんな雨の日にろくでもない。  要件はわかっているのだろう。見開かれた大きな瞳と口がそう物語っていた。男は、何も言わずにコートの下から鞄を取り出すと、中から一枚の、たった一枚の羊皮紙を差し出した。  ーーそんな。だって、あれが……まさか!  ふくよかな身体が崩れ落ちる。羊皮紙を受け取った手が男から見てもわかるくらいに震えていた。何度見ても痛ましい光景だが、男は言うべきことを、そして言わなくてもいいことを心得ていた。  ーー我が国のために、民のために、ユリア・レッシュベル、スタニスラフ・レッシュベル両名が最後までその任務を果たしたことを告げにきました。  ーーそんな……ことが。だって、そうじゃないか。これで3人目……あんまりじゃないか。何も、なにもないのかい?  ーーお二人は身も心もヴァーサの元へ旅立たれました。儀式は戦場にて滞りなく。  ーーやっぱり……帰って来ないじゃないか。約束はするもんじゃないよ……こんな、こんな。 「パパとママ、かえってこなくなっちゃったの?」  あまりにも突然小さな声が飛んできた。こんなことは初めてで、男は、言うべきことを忘れてしまった。赤い瞳がきゅっと縮まる。 ーーお前、どうして! お部屋で絵本を読んでなさいと言ってたじゃないか! 雨の日はろくなことが起きないのだから。 ーーや! ひとりじゃつまんないもの。ばあば、パパとママは? ーー戻ってなさい! いいから! 今すぐ部屋に戻って! ーーや!! パパとママは? ばあば、すぐにもどってくるって。パパ! ママ!!  赤い瞳が収縮する。燃えるような赤い、赤い色。燃える、ような。  その日、ただ無機質に降り続ける雨音が全ての音を消した。
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