足を探して

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足を探して

 ずるずると、何かを引きずる音が私の後ろから響いてきていた。  振り返ると、私と一定の間隔を空けて男が歩いていた。  男は細長い大きなものを手に持ち、体を揺するようにして歩いている。手にしていた何かが地面を引きずっているのだが、外灯もまばらな夜道の中で男の手元は不確かだった。 「……それは何ですか?」  私はしばらく立ち止まり、近付いてきた男に尋ねた。  何故見も知らない男に、私は言葉をかけようと思ったのか。自分でも口に出してから驚いた。  男は私の顔を無表情に眺め、自分の手元に視線を送ると 「蛸です。蛸の足です」  とつまらなそうに答えた。 突然話しかけてきた私を、特に不審には思っていないようだった。  意外な答に私も男の手元を見ると、夥しい数の吸盤が月明かりに照らされてぬらぬらと光っていた。  急に雲が晴れてきて、満月に近い大きな月が顔を出していた。  なるほど蛸の足のようだ。しかし、並外れて大きい。 「ずいぶん大きいですね」  私が言うと男は頷いた。先ほどよりはいくぶん表情に動きがある。 「あまりに大きいので、足を一本ずつ切り落として持ち帰っているのですよ」  男の話はこうだ。  男は今から一週間ほど前に船釣りに出て、見たこともないほど大きな蛸を釣り上げた。しかし蛸はあまりにも大きくて、一度には持ち帰れそうになかった。 「一本ずつ足を切り落として持ち帰ったらいい、と提案されたんです」 話しながらも、男は自分の話が信じられないようでしきりに首を傾げる。 「え、誰に?」 「蛸です」 多分、と男は自らに言い聞かせるようにつぶやいて、言葉を続けた。 「ただし、持ち帰るのは一日に一本ずつにしてください」 蛸は女のような可愛らしい声でそう告げたらしい。男の持っていた大きな桶には、ちょうど蛸の足一本分が収まった。 そのような成り行きで、男は毎晩海に通って一本ずつ足を持ち帰っているのだと言った。 蛸は岩の大きな窪みにはまっていたが、逃げることもなく翌日もそこにいた。男は逃げてしまっていたらそれでもいいと思い、特に蛸を括り付けたりはしなかったが、蛸はまるで待っているかのようにそこにいた、と言う。 「今日で七日目。明日で最後です」 男は惚けたような顔で言った。 「明日で終わるのかと思うと何だか寂しい。足が無限にあればいいのに」 奇妙なことを言う男に、私は思わず身を乗り出し、明日は自分も付いて行っていいかと懇願した。 男は一瞬何とも言えない嫌悪の表情を浮かべたが、私があまりにも熱心に頼むものだからしぶしぶ承知した。 こうして私は巨大な蛸の足を引きずっていた男と約束をして別れた。男の後ろ姿はなかなか小さくならなかった。 翌日の月は、いよいよ丸かった。 私は海岸から少し離れた橋の上で男を待っていたが、約束の時間になっても男は現れなかった。  来ない男を待っていると、昨日のやり取りがひどくあやふやなものに思われた。 ──夢でも見ていたのかもしれない。  私が家へと引き返そうとしたそのとき、小さな水音がして遠くの波が揺れた。いや、波は絶えず揺れていたが、綿々と続く波の連なりの中に小さく浮かび上がるものが見えた。  慌てて海のそばまで駆け寄ると、夜の海に泳いでいる人がいる。  首元にリボンのようなものを巻き付けて、実に幸せそうな笑顔を浮かべて海に漂っている。  八日目の夜に私は、蛸の最後の足を切り取りに行きました。  すると、蛸は一本きりの足を持ち上げて私の体を絡め取り、掬い上げて自分と一緒に海に引きずり込んだのです。  私にはわかっていました。心のどこかでこうなることを、望んでいました。  あるいは、無限に切り落とす足があればいいのに。そうすればずっと会いに来られるのに。  ずるずると、私の後ろで何かを引きずる音が聞こえるので、私は振り返る。  今夜の月は満月を過ぎ、欠け始めていた。 ──首に巻き付いていたのは、リボンではなかったのですね。あれは、 「最後の足だったんですよね」 そうつぶやいた私の声は、波音に紛れてしまった。  男の満たされた笑顔が私のまぶたの裏に浮かび、砕けた波とともに消えた。
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