骨の船

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骨の船

「あの人の妻が死にますように」  心の中にふと浮かんだだけだったはずの言葉が、口をついて出た。  慌てて周りを見回すが、こんなに風の強い日に海沿いを歩いている人は他にいない。 吹き荒ぶ風も高波も、今はまるで気にならない。強い追い風に逆らい、よろめきながら歩いている途中。  人目も憚らずに不謹慎な願いを口にするほど、わたしはあらゆるものから逸脱していた。  荒れ狂う海を見下ろしながら歩き、やがて橋の上にさしかかると、風に煽られた高波が足元で砕けた。  朱に塗られた橋は、波飛沫を受けて濡れていた。  橋のすぐ下は、海なのだった。 ──もう少しで足元を掬われていた。  波が引いていくと、朧気だった意識が多少はっきりしてきた。 「危ないところだったんだ」  と呟いてみたものの、他人事のように呑気な声音だった。  真っ赤に塗られた橋を渡り終えると、ぽっかりと洞窟が口を開けていた。  洞窟の中には朽ち掛けた船が見えた。まるで座礁してそのまま洞窟の中までとどまっているように見えた。さらに奥を見ると、華奢で美しい観音様が祀られていた。  わたしは吸い寄せられるように洞窟に進み入ったが、洞窟の奥に潜む鳥居のあたりまでは踏み入ることができない。  絶望的な気持ちが押し寄せた。美しい観音様を前に、恥じ入るような気持ちにもなった。  わたしは、観音様に縋るように手を伸ばした。 「どうか、あの人の妻を殺してください」  もう一度熱っぽい声で先ほどの願いを呟いた後、思いもかけない言葉が出た。 ──どうかわたしを踏みとどまらせてください。  わたしは確かに、その刹那そう願った。  観音様が、かすかに笑ったように見えた。花がほころぶような、微かな笑みだった。  そのとき、大波が洞窟の中まで押し寄せた。  声を上げる間もなくわたしは波にのまれたが、不思議なことに息苦しさはない。  気が付くとわたしは、船に乗っていた。骨組みばかりになった幻のような船。  呆然と周囲を見回すと、袖口に何かが引っかかる感覚がある。何気なく見下ろすと、華奢な腕がわたしに巻き付いていた。  見下ろした視線の先に、羽根があった。わたしは、海鳥に姿を変えていた。袖口と錯覚していたがところどころ灰色に汚れた白い羽根に、人間の肘から下だけが絡み付いているのだった。  悲鳴を上げようとしたが、もう声の出し方を忘れていた。  それはとても、些末なことのように思えた。  船はわたしが漕ぐまでもなく、潮の流れに沿ってどこまでも進んだ。  わたしの羽根に絡み付いていた腕がわたしから離れ、船の舳先に進み出て行くべき方向を指し示す。すると船はその指が示す通りに進んで行った。  海鳥の形をしたわたしと腕、そして骨組みだけの船が進んで行った。  海は荒れ果てていた。船は揺れ、わたしと腕は何度も大波を被ったが、船は傾かなかった。やがて波が凪ぐと、月が出た。  月を見上げていると、再び腕がわたしの羽根に絡み付いてきた。わたしはそれだけで、十分だという気がした。  これまで生きてきたことと、生きていく上で犯してきた様々な罪や愚かな行い、泥のようにこびりついた憎悪などが遠い昔の出来事になった。  わたしの許されることのない行いも、安らかに凪いでいくような気持ちになった。  そしてわたしは、針金のような足で立ち上がり、船から乗り出すと海へ身を沈めた。  鳥だったはずの体は、水をまとった瞬間に重い人間の体に変わっていた。 「一度だけ。次はない」  耳元で声がした次の瞬間、何か強い力に引き戻され、わたしは水の膜を突き破った。  もう一度生まれたばかりのときのように、体の全てが濡れていた。顔も両の目も、等しく濡れていた。  わたしは橋の上に立っていた。  ほんの一瞬の出来事のようにも、何年もの時を経たかのようにも思えた。  強風は治まり、橋の下で波は静かに規則正しく打ち寄せては引いていた。  もう少し歩いていくと、洞窟が見えてくるだろう。  わたしは遠くから、手を合わせた。
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