呼子

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呼子

「会えないこともないけどね」  駄菓子屋の店先で、「徳ばあ」が釣り銭を渡しながら言った。口調はどこかためらいがちだったが、声はいつもと同じで張りがある。  徳ばあは駄菓子屋の店主で、九十歳を超えているなんて噂もある。 確かに見た目はかなりの高齢だ。けれどもお釣りを間違えたことは一度もないし、会話もしっかりしている。  僕は、週に二度は徳ばあの駄菓子屋に小遣いを握りしめて出かける。  姉がいなくなるまでは、二人で行くこともあった。パートで帰りの遅い母を、二人で一緒に待つのが日々の決まりだった。しかし突然、母を待つのは僕一人きりになった。 「どうした?今日は一人か」  声をかけられて、僕は我に返る。母に止められていたから、駄菓子屋に足を運ぶのも久しぶりだ。徳ばあはその頃近所でも評判になっていた、姉の失踪を知らないようだった。  僕が俯いていると、徳ばあはそれ以上何も言わなかったが、釣り銭を渡しながらつぶやいた。僕の手のひらをきゅっと握りながら。  いなくなった姉に、会えるかもしれない場所。  徳ばあに教わった翌日、学校が終わると誰にも言わずに長浜に向かった。 荒崎を目指して、崖伝いに海岸を進んでいくと、次第に夕日が落ちてきた。ただでさえ足場が悪いのに、日が暮れたらどうなるのだろう。  怖さよりも、会いたい気持ちのほうが勝っていた。懐中電灯をリュックから取り出し、覚束ない足元と遠方を交互に照らしながら恐る恐る進む。この先には洞窟のように窪まった穴がぽっかりと口を開けている場所があるはずだ。視界が悪くなっても、経験的に覚えている。  遠足でこの場所を通った。友達もみんな一緒だった。怖くなかったし、笑っていた。太陽は頭の上にあった。  大きな波が足元の岩にぶつかってくだけ、僕は思わずよろけた。  そのとき、ふいに目の前に濃い影が現れた。 「ネエイ」  金属を擦り合わせたような耳障りな音が聞こえた。ぞくり、と背中が粟立つ。 「ネエイ、エエイ」  気味の悪い響きだったが、赤ちゃんのような甘えた口調でもある。言葉を話せない、何かが発した音。  僕はゆっくりと顔を上げた。  体中から水を滴らせた何かが、岩場を濡らしていた。口を開くと、粘ついた緑色の泡が溢れていた。逃げ出したかったが、足がすくんでしまう。 ─ー会えなけりゃ、そのほうがいい。  ふいに徳ばあの声を思い出して、僕は振り返った。後ろは一段と深い闇だ。 僕と向かい合った影は、それ以上近付いてこなかったが、目の高さまで持ち上げた手首に光る飾りに見覚えがあった。祖母に買ってもらった時の、自慢げな笑顔が浮かんだ。 「……姉ちゃん?」  声をかけると、大きく開いた口が、耳のあたりまで裂けるほどに広がる。 ─ーもしあの子が生きていれば、出会うことはないだろう。  徳ばあは、何故僕に教えてくれたんだろう。  ふたたび高い波が立ち、足元の岩にぶつかってしぶきを散らした。  僕は、姉のほうへ一歩ずつ歩みを進める。 ─ー会えないといいね。  闇に包まれた中で光る手首の飾りだけを見つめ、吸い込まれるように次の一歩を踏み出した。
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