ガーデニア

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ガーデニア

 雨粒が落ちる、絶え間ない音が続く。  地面や木の葉、家々の屋根を小気味よく叩き続ける音の粒たちが、ときおり束になって、小さな滝でもあるかのように、さーっと流れる音が、どこからともなく響いている。  ふと、ここはどこなんだろうと思う。知らないうちに、沢沿いに張ったテントの中で寝てしまったのか。ハイキングの途中、東屋で昼寝でもしてしまったのか。かなり真剣にそう思うが、どこかで違うことを知っている。知っていているけど、気づかないでいたい、そんな状態のまま、どこかを漂っている。  そうこうしているうちに、現実の朝に連れ戻されていた。音は単に、窓の外から聞こえているものだった。  二級遮光のカーテンが明るくなって目が覚める日々が続いていたので、音に起こされるのは妙な気分だった。外は薄明るいものの、私を目覚めさせるにはまだ足りない、淡い光。最近梅雨入りしたらしいと聞いたけど、しばらくの間、雨の音で目覚める日が続くのかもしれない。  昔から雨は好きだった。しかし、足元を濡らしながらの駅までの道のりを思うと、上半身を起こすのが億劫になってくる。とはいえ、時計の針の傾きとともに私も徐々に起き上がらねばならない。  体はまだ起きたくないらしい。仕方ないので、布団の中で、起きてからすべきことを想像してみる。いつもの鞄の中身を、防水してある鞄に移す。少し早めに家を出られるよう、いつも以上にきびきび動く。外に出たら、雨の角度を見極めつつ、傘の位置を微妙にずらしながら歩く。職場にたどり着いたら、濡れた上着はどこに干そうか……。  子供の頃は、もう少し雨を喜んでいたような気がするけど、いつから心配の種になってしまったのだろう。水たまりで遊ぶのがただ楽しかった、そんな日々は、もうはるか昔のことだ。近頃は舗装された道路ばかりになって、水たまりすらほとんど目にしない。  家を出るころには雨はかなりまばらになっていて、駅に着くころには傘もいらなくなっていた。  電車を降りると、雲の間から、明るい光が地面に降りてこようと待ち構えているのが見える。青空はまだ見えないけど、私の心配の数々は、取り越し苦労に終わったようだった。  やがて、街路樹の上から、木漏れ陽と呼ぶには少々力のない光が、舗装された道をまばらに照らすようになる。ほんの数十分の間に、天気がころころ変わっていく。落ちてくる光の量や、空気が含む水の量が違うと、日々変わらないはずの景色までもが、違って見える。  やっぱり雨が好きだった。  こんな日にうっかりそんなことを口に出してしまうと苦情がきそうなので、今のところ心の中でだけ思ってみる。鬱陶しいのは確かだとしても、せめて私くらいは梅雨を嫌わずにいてもいいだろう。  今年もそろそろそんな時期がやってくるはずだけど、不思議なことに、つゆ草も紫陽花も、まだ特に目に入ってきていない。そもそもこの辺にないのか、視界には入っていても、あのきっぱりとした青や、紫がかった水色が、最近の私には、特段なにかをうったえかけてこないということなのか。  日中油断させておきながら、帰る頃には、雨は勢いを増している。  今度は、さすがの私も文句を言いたくなるような雨だった。  そろそろ流行にならって長靴を買うべきなのか。小さい折りたたみ傘では、足元まではとてもガードできない。びしょ濡れになった靴下をもてあましながら、駅まで小走りに駆けていく。十数分を三十分くらいに感じながら、ようやく傘を閉じても歩ける環境に身を置くと、緊張がさっとほどける。  電車を待ちがてら、ホームの向こうにそっと立っているソメイヨシノの木を振り返る。葉っぱの色は、五月に見た初々しい黄緑色から、少々うっとうしい緑色に変わっている。葉っぱも大人になったのか。夏になる頃には、もはや老化していると言っていいだろう。しかし、そんな木々の成長サイクルを他人事のように言っているうちに、ふと気づくと、自分も若ぶっていられない年齢になりつつある。  濡れた服がひっつくのを鬱陶しく思いながら、電車を降りると、自然と駅ビルの扉に吸い寄せらていく。体が少しでも湿度の低い空間を求めているのだろうか。  自動ドアをくぐった瞬間、懐かしい香りに包まれる。香りの元をたどると、外国の化粧品類を扱うお店が現れる。前面に押し出されているのは、ガーデニアと書かれた香水だった。ガーデニアなどというと、しゃれた花に聞こえるけれど、パッケージに書かれているのは、八重咲きのクチナシの花だ。  その香水は年中置かれているので、前にも試したことがあった。しかし今手首にさっと振りかけてみると、冬嗅いだときよりも、香りが数倍濃厚に感じられた。サンプルの瓶の封を切ったばかりなのか、それとも湿度によって、香りが濃厚さを増しているのか。本物には及ばないまでも、そこにはクチナシの作り出す、あの世界の鱗片が漂っていた。瓶を一度手に取ると、元の位置に戻せなくなり、お店の思惑通り、瓶を手にレジへと向かうことになった。 「最近、これ、よく売れてるんですよ」  店員さんが微笑む。 「クチナシの時期ですもんね」 「クチナシ?」  私とそう年は違わなさそうに見えるけど、彼女は、クチナシを知らないらしい。 「英語ではガーデニアって言うようですけど、日本ではクチナシというんです」  鬱陶しい客だと思われてるかもなと思いながらも、めったに来るお店ではないので、そう言ってから立ち去った。  私だって、クチナシの名前を知っているからと言って、では身近なところにはどこにあるかと問われても、答えられるわけではない。どこにでもあるような気がしていたけれど、案外ありそうでない。かつて過ごしていた町は、比較的古くからの家が多くて、庭にクチナシがある家も多かった。しかし、最近住み始めたこの町は、新しい家が多いせいか、庭にあるのもジャスミンなどの洋風なものが多い多い。  どこにでもあると思っていたものが、実はないことに気づいたときのこの気持ちを、何と呼べばよいのだろう。喪失感とまではいかなくても、今まで自分が見ていたものは一体何だったのだろうと思ってしまうのだ。  
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