藤色の雨傘

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藤色の雨傘

 中学二年生のときから使っているので、かれこれ三年目になるのだろうか。指定の制服には紺と白しか色がないので、たまにはきれいな色が恋しくなる。濡れて重くなりがちな雨の日には、せめて心弾むような色をと求めた傘だった。  私は藤色と呼んでいたのだけれど、周囲の人たちはこの薄紫色を見て、「ラベンダー色」だとか、「紫陽花みたいな傘」だとか、様々な印象を持ったようだった。安物ではあったけど、複数の人に興味を持ってもらえて、私の傘だけれど私だけのものではないようで、新鮮だった。  安物だった割には、さほど色あせてはいない。骨の錆が布に移るのは、これだけ使い込んでいれば仕方がない。それでも十分、雨の日を楽しくしてくれる傘だった。  これを見たら、例の人はどういう印象を持つのだろう、と気になっていた。そういうときに限って、傘をさしているときに遭遇することはほとんどなかった。  不思議なことに、一週間ほど校内で彼を見かけない日々が続いた。隣のクラスなのだから、これは彼の存在を知って以来珍しいことだ。それどころか、その週の水曜日は図書室にも来なかった。病気にでもなったのか? と休み時間に隣のクラスをふと覗いてみたら、そこに彼はいた。席に座ってじっと何かを読んでいる、いつもと寸分違わない姿勢が目に入っただけなのに、どこかほっとしている自分を感じる。これはもしや、いわゆる振り回されたという状態と似ているのではないだろうか――彼は何もしていないというのに。  面白くないと思いながらも、「面白くないから思わず来てしまいました」と言わんばかりに、隣のクラスに入って行き、つかつかと彼の机の前に足を踏み出すほどの関係ではない。せめて同じクラスだったら……、いや、同じクラスだったら、余計そんなことはしないだろう、冷静にならなろう。  そういえば、キジバトの巣はその後どうなったのだろう。律義に約束を守ってのぞき込んだりはしていないけれど、彼は果たして、雛が巣立ちそうになったら私に教えてくれるのだろうか。疑わしいものだった。  ある日の放課後、傘立てを見ると、そこに今朝置いたはずの、藤の色が見当たらなかった。  目立つから、持って行かれてしまったのだろうか。目立つからこそ、きっと今日あれを持ち帰った人は、再び学校に持ってくることはないだろう。学校以外の場所で使うのか、もしくは帰りにどこかへ捨てて帰るのか。他人への配慮がない誰かが一時的に雨を防ぐために行ったことは、私の三年間をともにした相棒を二度と戻って来ない傘にしてしまった。どこかに置き去りにされた際には、やがてごみとして処分されるのだ。  立ち尽くしていると、後ろから足音がした。足音は私の横で止まると、さっと伸びた手が、古ぼけたビニール傘を掴んだ。 「何してんの?」  と藍田君は言った。 「傘が、なくなった」  「ああ、あのタチツボスミレみたいなやつか」  聞いた瞬間、もっとあの色について話してほしかったと思った。でも、もう遅い。もうどこでも見ることができない、今となっては幻の色となってしまった。 「じゃあ、これを使って」  そんな紳士的な態度がとれるの、と普段なら言いそうだけれども、驚きのあまり冗談を言う気にもならない。 「藍田君はどうするの?」 「自転車で帰るから、いい」 「けっこう降ってるよ」 「傘差し運転は、気が乗らないと思っていたところだったんだ」  ためらいながら傘を受け取ると、彼はつかつかと玄関を出て、さっと雨の中に駆け出して行った。  こんなにボロボロになるまでビニール傘を使っているなんて、もしかすると、彼もいつだか、気に入った傘を盗まれたことがあったのかもしれないと思う。  ビニールの天井に響く音は、あのナイロンに響く音よりも少し固い。打楽器奏者が太鼓をたたくときの、バチが弾む様子を思わせる。  透明な中から見る雨の町の様子は、いつもとまた少し違って見える。傘を失ったショックは消えないが、古いビニール傘が、新しい世界を垣間見せてくれているのは確かだった。
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