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梅雨明け
期末テストが終わり、晴れる日が増えた。私の家では決まった時間にニュースを見る習慣がないせいか、誰かしらが「もう梅雨が明けたらしい」というのを聞いて知るのが毎年の恒例だ。
今年の梅雨明けを教えてくれたのは、意外にも小川先輩だった。
「今まで、やっぱり湿度が高かったじゃない。だから、同じ百グラムの小麦粉でも、どうしても水分量が多かったんだよね。梅雨が明けた今、今までと同じようにしていても、理想のクッキーは焼けないと思うんだ」
そう言って、大匙いっぱいの水を、すりきりよりどの程度減らすべきか、真剣に悩んでいるのだった。思わず「小川先輩って、本当、真面目ですよね」と口から洩れる。
みんな苦笑いしつつも、我々のクッキーは明らかに初期の頃より確実に歯ごたえがよくなっているた。ぱりっとした食感がこれほどクッキーの美味しさを左右するとは思っていなかった。多分、バターや卵を使ってしまえば簡単なのだ。しかし、この小麦粉、植物油、砂糖、水だけで作ったクッキーのおいしさは、また違うものなのだ。素直に粉の味が感じられ、かつ引っ掛かる感じがない。これに慣れてしまうと、普通のクッキーはっや刺激が強い気すらしてくる。
「うちら、すごくない? 今年の文化祭、かなりいけると思うよ。これ、絶対買うでしょう」
「一種類買ったら芋ずる式に他の味も買っちゃうよね」
そんなことを話しながら、活動にも熱が入るのだった。
藍田君はあれから、下校時に呼び止められては、放課後の家庭科室に寄る機会が増えていた。年上のお姉さんたちに囲まれると、対応もそれなりに見える。もう慣れたものの、いまだに不思議な光景だ。私の前で見せる気のない顔と、みんなの前で浮かべる普通の高校生の顔と、どちらが本来の彼により近いのだろう。
先輩たちも彼を気に入ったようで、彼が来ると部室が華やいでいる。今までも、小川先輩目当てで遊びに来る男子はたまにいたけど、あまりにそれがあからさまなので、そういう人たちは自然と排除されてきた。藍田君は、霧のようにひっそりとしているせいか、ごく自然にこの部屋の空気の一部にでもなっているかのようだった。
彼が数学が得意なのは、先輩たちの間でも有名らしかった。どさくさに紛れて数学を教えてもらおうとする先輩もいたが、小川先輩に「こらこら」と止められていた。
「藍田君って、お姉さんいるでしょう?」
「はい」
「小川っち、なんでわかるの?」
「なんだか、うちの弟と似てるんだもん。あいつ、私の友達が来ると、とたんにかしこまっちゃうの」
藍田君はにこにこしながら、
「僕はそんなことないですけど。ね、網野さん」
などと言う。みんなの笑い声が響き、私は苦笑いして首を傾げる。
「藍田君って一日何時間くらい勉強してるの?」
「宿題くらいしかしないです」
「授業聞いたらわかっちゃうんだ?」
「まあ、そうですね」
頭いいんだーという声が響く。以前、通信教育もやっているときいたのは空耳だったのだろうか。
「で、わかいない教科は放置するから、わかんないままで、異様に点数悪いんじゃない? 地理とか」
「はい。自分の場合は、日本史が全然だめですね」
この人の一人称は自分だったっけか? かっこうつけちゃって。
「小川っちみたいだね」
先輩たちは、そんなことをきゃあきゃあ言い合っていた。
テストが返却される頃になると、たいてい先輩たちはにぎやかだった。それは、小川さんの成績がずば抜けて良いからだかだ。彼女は自分から点数をばらすようなことはしないけど、先生によっては「このクラスの最高点は……」とか、「今回は九十点代が二人いました」などと暴露する。すると、だいたいそこには小川さんが当てはまるというわけだった。小川さんは、「まぐれだよ~」などと言っているが、その「まぐれ」は、私がここに来てからずっと続いている。藍田君は小川さんに比べると、まんべんなく良いわけではなく、理数系がずば抜けているようだ。いずれにせよ、私にはどうでもいいことだけど。
藍田君はいつも、図書委員の当番が終わる前に帰ってしまう。しかしその日は例外的に、彼が帰る前に図書室を閉めることになった。
「ごめんなさい、今日、朝から調子が悪くて……今日、利用者も少ないし、早く締めちゃってもいいかしら」
先生がそう言い出したのだ。その日は天気も悪く、これ以上人が来そうにも思えない。図書室を閉めるのは四時半だったけど、その日は十五分早く閉めることになった。藍田君が図書室を出るのはだいたい二十分頃なので、初めて一緒に出ることになった。だからといって、一緒にどこかへ行くわけではない。せいぜい下駄箱まで一緒に歩くくらいだ。
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
そう言って、いつだかに登山部のポスターが貼ってあった掲示板へと歩く。しかし、もうそこにポスターはなかった。登山部のポスターばかりななく、部活関係のポスターは一掃され、大学のオープンキャンパスの案内などが貼られていた。
「ここに、新入生募集のポスターがあったんだけど」
「ああ、あれは四月、五月だけ、掲示していいことになってたから、みんなもう剝がしたよ。入部したかったんだ?」
「そうじゃないけど、きれいな写真だったから、どこで撮ったのかなと思ったの」
「被写体がよかったからなぁ」
え? と言うと、彼は珍しく屈託のない笑みを浮かべる。私に冗談を言うなんて、珍しい。
「藍田君、家庭科室に来てるときって、なんだかいつもと雰囲気が違うよね」
彼は、ちょっと警戒した様子を見せる。これ以上言ってはいけないと思いながらも、言葉が止まらない。
「小川さんって、きれいだよね」
「わざわざそんなことをいうために、ここに連れてきたの?」
「いや、私はただ、あのポスターが気になってたから……」
「わかった。全部はがして捨てたと思うけど、あの写真をもう一度現像できないか聞いてみるよ。じゃあ」
彼は足早に去っていった。
私は何をしたかったんだろう。別に、小川さんのことなんて言うつもりはなかった。あの人が普段言わないような冗談を言ったから、動揺してしまっただけだった。
家庭科室に来てる時だって、ちょっとよそ行き用に礼儀正しくしているだけで、別によく見れば普段の彼とそんなに違っていないことはわかっていた。私にもう少し親切にしてくれてもいいんじゃないかと思わないでもなかったけれども、でも私だって本気でよそ行き用の顔で接してもらいたいと思っていたわけではなかったはずだった。
一年生の教室が固まっているので、ここを通るのはほとんど一年生ばかりだった。
私もやがて、玄関へと向かった。
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