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ガーデニア
週末、和美の家へ遊びに行った。
彼女は高校生の頃からの友人だ。今では千代ちゃんという四歳の女の子の母となっている。赤子の頃から手なずけているので、千代ちゃんは私を見ると、近所の友達が来たかのようにすぐに打ち解けてくれる。
公園を散歩していると、「この青いお花きれい」と言って紫陽花を指さした。ああいたんだ、紫陽花、そう思うとほっとした。
「紫陽花っていうんだよ」
「あじさい」
千代ちゃんは、たどたどしく私の言葉を繰り返す。
「蓉子ちゃんは、お花の名前をたくさん知ってるの。なんでも訊くといいわよ」
和美は、さりげなく私に教育係の役目を振る。
そうか、私はお花の名前を色々知っているのか、と人ごとのように思う。誰と比較するかによるけど、少なくとも、和美より知っているのは確かだ。
「和美でも紫陽花くらいわかるでしょう?」
「最近は色々なのがあるから、どこまでが紫陽花なのかわかんなくなっちゃって」
「基本はほとんど同じでしょう」
和美は笑って誤魔化した。自分は小さいころからピアノの練習ばかりしてきたから、ろくに一般教養を身に着けていないというのが、彼女の口癖だ。
「じゃあ、くちなしってわかる?」
「くちなし……ああ、昔、“くちなしの香りの……”っていう歌詞の歌があったよね? その歌は覚えてるけど、くちなしがどんな植物なのかは知らない。花が、咲くんだよね?」
「当然だよ。すごくいい香りがする花が咲くんだよ」
「へえ。見てみたいなあ」
「高校にもあったよ」
「じゃあ、高校生のときに教えてくれればよかったのに」
千代ちゃんがもの言いたげに私達を見上げる。話に入れないので、つまらないのだろう。
「高校って言えばさ、当時、樹の名前で、蓉子がすごく難しいのを知ってたような気がするんだけど」
とっさに言われても心当たりがなくて、何も出てこない。
「高校に植えてあった木、確か、生きた化石とか言ってた……」
「ああ、メタセコイアのこと? 特に難しくはないと思うけど」
「難しいよ。そもそも、どこの国の言葉なのかもわかわかんないじゃん」
「一応、日本国内でも通用する名前のはずだけど」
自分でたった今口に出した言葉に、ひっかかるものを感じる。
これって、私の言葉なのか? それとも、私が誰かに言われたことだったのか?
「あの木、あの辺にはやたらとよく植えられてたけど、他ではあんまり見ないし。よく知ってるなって感心したんだよ」
「そうなの? 公共事業を担当してる人が好きだったのかも、メタセコイア」
千代ちゃんは私たちを見上げて、「めたせこいあってなあに?」と言った。
「あ……、雨?」
和美が手の平を空に向ける。途端に、雨粒が地面をぽつぽつと叩く音が大きくなっていく。雨はどんどん激しくなり、髪の毛を通してじんわり髪の中に染み込もうとする。
「千代、走るよ」
和美は千代ちゃんの手を取ると、屋根のあるところへ駆けて行った。
私もつられて走り出してはみたものの、折り畳み傘を鞄に入れていたことを思い出し、傘を取りす。悠々と歩きながら、二人の待つ東屋に到着した。
「ママも傘持ってるでしょ」
千代ちゃんは和美を見上げる。和美は「あ、そうだった」と言いながら、鞄の中からハンカチを取り出し、千代ちゃんの頭をせっせと拭いた。
「あ、ママ、羽が落ちてる」
千代ちゃんはかがんで地面に落ちていた羽を拾おうとする。和美は「汚いからやめて」と言う。
「容子ちゃん、これ何の羽?」
千代ちゃんは拾うのは諦めたけど、好奇心は抑えられないようだ。
「これ、キジバトの羽じゃないかな」
「なんでわかるの?」
「灰色だけど、先っぽだけオレンジ色だから」
「キジバトってオレンジ色の鳩なの?」
「よく見ると、オレンジ色の模様が入ってるの。今度お母さんに教えてもらいな」
和美は、「私はそんなの知らないし」とつぶやいた。
「キジバトも、高校にいたの?」
「さあ、どうかな」
傘をさしながら、すぐ近くにある和美のマンションまで歩いた。
いつになったら止むんだろうと思いながら、窓の外を眺めること一時間。こういう、適度に狭い空間に閉じ込められるのも、私はけっこう好きだった。
「今日、帰るんだっけ?」
「そのつもりだけど……なんだか、駅までまた濡れて帰るのかと思うと憂鬱だな」
「じゃあ、泊まってけば? 今日は旦那も帰って来ないし」
「いいの? じゃあ、そうさせてもらおうかな」
私が言い終わるなり、千代ちゃんが「やったー」と笑った。
一人暮らしが長い私には、家族との団らんが何やら珍しいもののように思えることがある。いつになったらこういうのが日常になるのだろうと、どこか他人事のように感じてしまうのだが。
彼女は専業主婦で、旦那さんは出張が多いらしくて、よくこうして留守中お邪魔していた。台所に行けばどこに何があるのかもあらかたわかるし、ご飯を食べた後、食器洗いは主に私の担当になる。勝手知ったる他人の家だった。
千代ちゃんが寝てしまうと、ささやかな酒盛りが始まった。
「普段は飲んでる暇なんてないから、うれしいわ」
「私も。最近は周りも妊娠とか出産とかで、なかなか一緒に飲む人がいなくてさ」
昼過ぎに会ってからもうかれこれ数時間経つ。色々と話した気でいたけれど、子供が寝た後だと、まだまだ話は尽きない。
「ところでね、この間借りた本なんだけど……」
この間来たとき、植物図鑑を貸したことを思い出す。千代ちゃんが、「知らないお花があるから調べたい」と言ったので、家にあったのを貸したのだ。
「ああ、どうだった? 参考になった?」
彼女は何か迷っているように、視線を横に向けたり、うーんと言ったりしている。
「あのさ、本に挟んであった、あれは……」
「何が挟んであったの?」
「まあ、いいや。何でもない。気にしないで」
最も気になるような言い方をされ、今すぐ本の中を改めたくなったが、そうするわけにもいかない。気にしてないふりをして談笑を続けたけれど、和美が言おうとしたことが気になって、なかなか話に集中できない。
どちらからともなく、そろそろ寝ようという流れになる。布団に入って電気を消すと、彼女はようやく先ほどの話題に触れた。
「蓉子は、今でも藍田君のことを忘れてないの?」
予想もしていなかった人の名前に、思考が停止した。動揺していることをうまく隠す余裕もなく、無言のままでいるしかなかった。
もはや写真すら手元にないその人は、どういう顔をしていたのか、それすらおぼろげにしか記憶にない。しかし、忘れてないかどうかという質問には、イエスと答えるしかないようだった。
「ごめん、変なこと訊いちゃったね。もう寝よう。明日、寝坊したら千代に怒られちゃう」
起きているときの時間を精一杯使っている和美からは、驚くほど早く寝息が聞こえてきた。それとは裏腹に、一人取り残された私は、もはや寝ることはできそうになかった。
さっきのキジバトの羽と言い、図鑑のことと言い、なんだか今日は変だ。
あの図鑑には一体何が挟んであったのか。本棚のどの辺に置いてあるか、大体見当はついている。
電気を点けるわけにいかないので、携帯電話の灯りを頼りに図鑑を探し、手に取ってみる。それは、高校生の頃に藍田君という人からもらったものだった。
ようやく図鑑が見つかり、手を伸ばすと、寝室から声がした。
一瞬動きが止まる。そっと様子をうかがうと、千代ちゃんが何か寝言を言っただけのようだった。熱くなったのか、タオルケットをはいでしまったようだったので、そっとかけ直してやった。
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