芽生え

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芽生え

 今日のレシピは、ココナッツと黒糖のクッキーだった。人気だけど、ココナッツは単価が高めであまり買えないのでたまにしか選ばれないレシピだ。  なにを作るかは、毎月、みんなの意見を聞きながら、小川先輩行きつけのスーパーでなにが安くなっているかなどにも左右されて決まる。けっきょくは全部小川先輩が決めるのだけど、みんなの意見もそれなりに取り入れられているし、コンビニで買うおやつよりも断然安くまたおいしくもあるので、文句を言う人はいない。  今日のレシピは、小麦粉の三割の量のココナッツを使うものだった。全体に占めるナッツの割合が、ほかのクッキーよりも多めで、値段は割高になるけど、値段相応の価値がある。小川先輩はラム酒を入れるのが好きらしくて、家でつくるときには水の代わりにたびたびラム酒を入れて作るらしい。私はこれでじゅうぶんだけど。  まず初めに、小麦粉と砂糖とココナッツをボウルに入れて、塩も隠し味としてちょっとだけ入れて、手でふわっと混ぜる。そこに植物油を入れて、手ですり交ぜる。そぼろのようになったら水を加え、さっとまとめて、生地の出来上がりだ。レシピではアイスボックスクッキーになっているけれど、私たちは冷やす間待っているのが苦手なので、大匙ですくって丸くして焼く。  焼く時間は二十分ちょっとだ。低めの温度でじっくり火を通す。  十五分くらいすると、オーブンから幸せな香りが漂ってくる。 「なんかさ、この匂いかいでるときのほうが、食べてるときより幸せな気がする、まあ、もちろん食べるのも大好きなんだけどさ」 「わかる。食べるときのほうが、ちゃんとさくさくしてるかとか、塩加減はどうかとか、焼きすぎてないかとか、気になる要素が多いもんね。匂いって、何気に、てきとうに材料混ぜて焼いてもそんなに変わんなさそうじゃん? でも食べるときって、ちゃんと材料を計量したかとか、材料混ぜすぎないで適度なところでとめたかとか、そういうのが全部出ちゃうからね。本当、緊張の一瞬だよね」 「私、そこまで考えてなかったんだけど。さすが小川っち」  このクッキーは、焼き立てよりも、少し冷めてからのほうが歯応えがよくておいしい。小川先輩は、焼き立ては油が熱で緩くなっているのだろうと言っている。  焼きあがるのをみんなで確認してから、三十分の休憩に入る。そうして、また集合して、ここで雑談しながら食べる人と持って帰る人に分かれる。たいていの人はここで食べて、五時くらいになるまでみんなでぶらぶらしていることが多い。  ただ雑談するだけだったら、このメンバーには、多分さほど共通の話題はない。だけど、こうやって共通の楽しみがあって、ああだこうだと話していると、けっこう楽しい。  あまり頻繫ではなくて、週に一度だけなのもいいのかもしれない。  クッキーは、今日も一枚も残らず片づいた。みんなにこやかな顔をして帰っていった。  一度言葉を交わすと、それにつられたように遭遇する機会が多くなるのは気のせいか。  いくら狭い校舎内とはいえ、数百人いる生徒の中では、まるで知らない人が大半だ。今までもそれなりに視界に入っていたのだから、多少は生活圏が重なっていたのかもしれないけれど……、そんなこんなと理由をつけて、なにか縁がある人だと思い込もうとしているのだろうか。  あの人と次に会ったのは、ほんの数日後のことだった。  図書委員の当番が終わり、学校の玄関から正門へ向かう途中、地面に何かが落ちているのが視界に入った。マスコットのようで、よく見ると、自転車の鍵がついていた。職員室へ持って行った方がよいだろう、などと思っていると、その近くに面白い形の葉が三枚ついた、植物の芽があるのを発見した。  かがんで見ていると、すぐ脇で自転車が止まる音がする。顔を向けると、彼がいた。 「これ、何かな? この木の芽生えみたいなの。わかる?」  目的を持ってかがんでいたことを、強調してみる。 「コナラだよ」 「コナラ? なんだか聞いたことあるけど……」  藍田君は近くに来ると、あれ、と言って上を見上げる。「あれ?」と言いながら一緒になって見上げてみる。木を下から見ると、枝が幹をぐるっと囲んでついているのが見える。いつもと見え方が違って面白い。 「これ、コナラの木なんだ。ここからどんぐりが落ちてきて、芽が出たんだ」 「どんぐりの木なの?」 「ドングリノキという名前の木はないけどね。まあ、そう呼びたければ、呼べばいいのでは」  いちいちこだわりのある人のようだ。 「花は咲かないの?」 「花が咲かないで実がなるわけないだろう」  こんな返答しか返ってこないので、後で自分で調べてみようと思う。 「どんぐりって、毎年なってるの?」 「まあ、大体は」  言われてみると、木の周りにはいくつか同じような芽が出ていた。 「大きくなってる芽はないみたいだけど。この小さいのしかないよ」 「草刈りの時にでも、刈られているんだろう」 「ふうん」  吹奏楽部の練習が休みなのか、音楽室からピアノの音が聴こえてくる。三階にあるので、音が空から降ってくるようだった。ショパンの幻想即興曲、和美が好きな曲だった。 「幻想即興曲、か。高校生はこんなの弾くんだな」  藍田君は独り言のようにつぶやく。それなりに有名な曲ではあるにせよ、よく知っているなと思う。 「多分、あれ弾いてるの、私の友達だよ」 「へえ、すごいもんだ」  和美とは、一年生のときに同じクラスだった。出席番号が近かったのがきっかけで友達になった。自分のことを褒められたわけでもないのに、ちょっと嬉しくなる。 「彼女、音大目指してるから」 「音楽室は吹奏楽部だけが使っていると思ってた」 「今はテスト期間中で部活がないから、そういうときには、先生に断れば、音大目指してる人が借りられるらしいよ」  そのとき、ピアノとはまた別の種類の、不思議な音が聴こえてきた。最近かよく耳にする、多分鳥、もしくは何かの小動物の声だろうけど、よくわからない不思議な音だ。 「これ、なんだろう……」 「これって?」 「この、変な音、動物の鳴き声みたいなの」  藍田君は、首を傾げた。彼には聴こえないのだろうか。 「本当に知らないのか? キジバトの鳴き声だよ」 「キジバトって?」 「キジバトはキジバトだ。それでよく高校に入れたものだ」  言い返す言葉を探している間に、彼は「じゃあ」と言うと、自転車ですーっと去って行った。  もしかして今のは「スズメって何?」と訊くようなものだったのだろうか。あそこまで言わなくていいのに、と思わないではないけれども。とりあえず、キジバトがどの程度有名なものなのか調べてから反論するしかないだろう。  しかし、よくもまあ、瞬時にぽんぽんと色んなもの名前が出て来るものだ。やはり記憶力がいいのだろうか。もしくは私が物事を知らないだけなのか。  ところで、藍田君は私の名前は知っているのだろうか。今度会ったら聞いてみようと思った。 参考文献 なかしましほ 『まいにち食べたい“ごはんのような”クッキーとビスケットの本』 主婦と生活社
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