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メタセコイア
半袖を着る、それだけのことで、随分と無防備になってしまう気がする。自分と空気との間を遮っていた布一枚がなくなるだけで、どこか心もとなくなる気がする。
女子生徒の服装も、夏服になって心持ちスカートが短かくなったり、ワイシャツのボタンをより下まで開けるようになったりと、どこかしら隙が増えるのが常だ。暑くなると、もうどうでもいいやという気になってくるのだろうか。肌と空気が密着している感じがする。ちょっと前まで、こんな太い腕では半袖なんて着られないと言っていたのが、いいじゃない、暑いんだから、で色々なことがどうでもよくなってくる。
だからというわけでもないけれど、大して親しくないはずの人とも、現状の関係よりも打ち解けた態度でもって接するようになるのは、ごく自然なことなのかもしれない、そう言い訳しつつ、ちょっと向こうの方で木に向かって何か物言いたげな様子を見せている藍田君に近よってみる。
「それは、なんていう木なの?」
彼はゆっくりと振り返った。あの写真のような自然な顔つきではなく、いつものように、どこか警戒したような表情だ。あの写真を見てしまったあとでは、こちらの方が作っているように見えなくもないが。
木と向き合っていたときにはどんな表情をしていたのだろう。振り返る間に表情をつくりかえたりするのだろうか。
「これは、マテバシイというんだ」
「スダジイじゃないの?」
「ちょっと、向こうへ行こう」
彼はそう言って私の鞄を引っ張る。急に距離が近くなる。驚いて声もでない。こんなことする人だったっけ、と思いながら、何か彼を怒らせるようなことをしたのか、必死で考える。少し離れた木の下に移動すると、ようやく立ち止まる。
「なんで移動したの?」
「実は、あの木にキジバトが巣を作っているんだ」
「え!」
また戻ろうとした私の、今度は手首がつかまれる。指が意外と温かくて驚いていると、彼は一言「だめだ」と言った。
「なにがだめなの?」
「この学校の中で、まだ誰もキジバトには気づいていない。もし今二人そろって見に行って、誰かに気づいたらどうなると思う? よってたかって騒ぎ立てて、鳥が逃げていくのは目に見えている」
「藍田君は、なんで気づいたの?」
「遠くから見ていた時に、キジバトが樹冠に入っていくのが見えたんだ。もしやと思って近づいたら、キジバトの夫婦がいた。ばっちり目が合ってしまったから、あわてて去ったんだけど、やっぱり気になって、人気のないときに、こっそり見ているんだ」
「藍田君を見ても驚かないの?」
「慣れたのかどうかはわからないけれど、今のところ僕と目が合っても逃げ出す様子はない。でも、相手が君だったらわからないな」
「わかった、覗かないようにする。でも、ひなが生まれたら、巣立つ前に一回くらい見せてよね」
「どうかな」
会話が一時中断されると、ふと、この人とこんなに長いこと話したのは珍しいなと思った。
「そういえば、この木はなんていうの?」
今我々の横にある木は、さきほどの木と違いって、柔らかそうな、明るい色の葉っぱがついている。彼は、呪文のような言葉を呟いた。
「え? 何?」
「メタセコイア」
今度は子供にでも言い聞かすように、ゆっくりとした口調で言い直す。
「何語?」
「一応、日本国内でもそれで通用するはずなんだけどね」
単に事実を述べているだけなのか、皮肉を込めたつもりでいるのか、彼の日常を知らないので何とも判断しようがないけれど、キジバトに気を遣う十分の一でも私に気を使ってみてはどうか、と言いたくもなる。
じっと見ると、濃い黄緑の葉は、羽のように、固い部分にびっしりと細かい葉がついた作りになっている。風が吹くと、葉が揺れる様子が、細かく可愛らしい。木の肌は赤みを帯びた茶色で、ぺりぺりと音をたてて皮をむきたくなってしまうような樹皮がついている。
「面白い樹だね」
「どこが?」
「何だか、他の木と雰囲気が違うみたい」
彼は何も答えず、でも少し微笑んだように見えた。
「これは、生きた化石といわれているんだ」
「へえ、よく知ってるね」
「生物の資料集に載ってなかった?」
そのとき、「ちょっとそこの二人」と声がした。びくっとして振り返ると、カシャっと音がした。そこには三宅君がいた。
「一体、なに?」
「フィルムが余ってて現像できないから、いろいろ撮ってるんだ。藍田、今日は歯医者じゃなかったのか?」
「あと十分したら出る予定だ」
「ああ、そう」
三宅君は、じゃあなと言って去っていった。
虫歯を抱えているだなんて、生真面目そうに見えて、案外隙がある。ふとおかしくなった。
野暮用で部活に遅れていくと、家庭科室に近づくにつれ、甘くて香ばしい空気が濃くなっていく。この辺を歩いているだけでおなか一杯になってしまいそうだ。私の大好物のピーカンナッツの香りが混じっているようだ。今日のレシピは、ピーカンナッツとメープルシロップのビスケットなのだ。
足早になって、わくわくしながらドアを開ける。
「今日はまた、一段といい香りですね」
「ピーカンナッツとメープルシロップがダブルで入ってるからね。材料費も高かったけど、たまにはいいよね」
「ピーカンナッツって、もう、焼いてるときの香りだけでくらくらしちゃいます、本当に」
そう言うと、みんなも大きくう頷いた。
「この本に載ってるのってさ、何回か作ってわかったけど、簡単そうに見えて、完璧を目指すと、案外難しいよね。そこそこのものは作れるんだけど、より美味しくって思うと難しくなって、何度もやり直ししたくなっちゃうんだ」
「へえ、そうなんですね」
小川先輩は、こねすぎるとグルテンが出て固くなるだとか、湿気の多い日は粉が水を吸うから加える水を少なめにするんだとか、温度はオーブンによってまちまちだからこのオーブンでも最適な温度と時間を検証中なんだとか、熱心に話し出続けた。十分ほど話したころだろうか、「ちょっとトイレ行ってくるねー」と短いスカートを翻して部屋を出て行った。
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