存在証明のパラドックス

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  僕は恐る恐る座席を立つと、 進行方向に向かい歩きだした。 本能が先頭車両を、 操舵室(そうだしつ)目指(めざ)していた。 座席のあちらこちらにこびりついた血の()み。 生々(なまなま)しき血痕(けっこん)。 その浅黒(あさぐろ)い染みの中で動かなくなった金髪の女性。 (ぬめ)った血の()み込む肌触(はだざわ)り。 脳にこびりつく死臭。 むせかえる腐敗臭(ふはいしゅう)に必死で(せき)をこらえながら、 死の合間(あいま)を抜けて行く。 見えない恐怖に(おび)えながら、 ただひたすら先頭車両を目指す。     ─無差別(むさべつ)殺人(テロ)─ 過去に起こった、無差別殺人を思い出す。 それは狂った宗教団体が起こした無差別殺人。    ─地下鉄サリン事件─ 日本で起こった痛ましき事件。 電車の中で狂った宗教団体が、 サリンと言う毒ガスをまき、 死傷者を多数出した陰惨(いんさん)な死の記憶。 他にも電車の中で、 刃物で多数の人を殺害した事件などもあった気がする。 いずれも島国(しまぐに)日本で起こった事件だ。  日本!? そこでなぜ自分が、 日本のそんな古い事件を知っているのか引っ掛かった。  僕は日本人なのか? それは僕の過去を紐解(ひもと)(わず)かな手がかりだった。 (いま)だ僕は自分の名前さえ思い出せないでいる。 それはこれが一時的な記憶の錯乱(さくらん)などではなく、 自分は記憶喪失(きおくそうしつ)である事実をつげていた。 目覚めれば突然ほうり込まれた死の螺旋特急(死霊車両)。   夢。  そう思えれば・・・ 空調が止まっているのか、 むせかえる腐敗臭で現実に引き戻される。 その悪臭に()き込みながら、 僕はまるで夢遊病者のように、 いくつもの死体の横たわる座席を通りすぎて行く。 その時ふらつく足下で、 ゴムボールのような弾力のある何かを 踏んづけた感触がした。 ぐちゃりとした嫌な感触。 粘液質な液体が(にじ)み出し足裏に張り付く。 ゴキブリのように足裏にへばりついたそれを、 床に(こす)りとる。 吹き出した黄土色(おうどいろ)の体液が線を引いていた。 (つぶ)れた何か!? それは粘土色(ねんどしょく)(にご)った目。 僕は麻痺していた恐怖がその感触と共に、 徐々(じょじょ)に現実感を(ともな)って広がっていくのを感じた。 ゴキブリの様に(つぶ)れ体液を吹き出し、 無機質(むきしつ)(くう)を見つめる眼球。 (あふ)れ出した粘液(ねんえき)と共に、 その中でハリガネ虫に似た白い寄生虫(なにか)が、 無数に(うごめ)いていた。 途端(とたん)に込み上げる吐き気と目眩(めまい)。 それに必死で耐えていると唐突(とうとつ)に、 足首を捕む、ひんやりとした感覚があった。 僕は転びそうになって近場の背もたれにしがみつくと、 恐る恐る足を見る。 そこには座席の下から小さな手が、 僕の足首をしっかり(つか)んでいた。  白く小さな手。 恐怖のあまり背もたれを(つか)んだまま腰を抜かし、 その場に座り込む。 座席の下からは、生気の無い(にご)った目が2つ、 こちらをじっと見つめていた。  
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